概要
1948年11月3日生まれ。東京都中央区銀座(旧・木挽町)出身。東京都立王子工業高等学校機械科卒業。
若い頃には商社に就職した事やNHKの大道具のアルバイトをしていた事もある。また、金子信雄が主宰する劇団「マールイ」の演劇教室に生徒として通った事もあり、同じ教室にいた松田優作と面識が出来た。
1974年に自由劇場へ参加、俳優として起用されるようになったが、串田和美の作風に肌が合わず、1976年に退団。ベンガル・綾田俊樹と共に劇団東京乾電池を結成。座長を務める。同年4月から1978年3月頃までベンガル・綾田と『ひらけ!ポンキッキ』のお兄さんを担当した。以降多くのテレビ番組・ドラマ・映画に出演するようになる。
1987年からは志村けんとコントでの共演をするようになる(後述)。
1992年に映画『空がこんなに青いわけがない』では監督を務めている。この撮影の現場で重圧を経験した事から、後に産経新聞のインタビュー企画『わたしの失敗』で「もう二度とやりません」と発言。後にも先にも監督作品はこれのみとなっている。
1998年に「カンゾー先生」にて第22回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。
2011年6月に紫綬褒章を受章。2019年11月には旭日小綬章を受章している。
妻は角替和枝(2018年に死別)、息子は柄本佑、柄本時生。安藤サクラ(佑の妻)、入来茉里(時生の妻)は義娘。
志村けんとのコント
1987年から志村けんからコントでの共演のオファーを受け『志村けんのだいじょうぶだぁ』や『志村けんのバカ殿様』のコントに出演。芸者コントや婚期を逃した四十路女性、盗み食いをするコントでの挙動不審なサラリーマン、刑事、寺の住職、道場破りなどコミカルなキャラクターを演じた。
志村は柄本にオファーした理由を「この人、実際そばで見てみたいっていうのがあった。笑いとかやるには得な顔。ちょっと欲しいなその顔って」と2019年に語っている。そのオファーまでは双方に面識はなかった。
柄本は「コントは志村さんとしかやらない」と発言している。2020年に志村が新型コロナウイルス感染により死去した際には相当ショックを受けており、コメントペーパーを出さなかった。同年6月および2021年3月に放送された志村の追悼特番に出演し、志村への敬意を改めて語っている。