信濃の国
しなののくに
概要
長野県内の学校等では何らかの行事を行う際には必ずといっていいほど歌われる。
1900年に、県内の地理教育の歌として成立。1968年に正式に県歌となった。
他の都道府県歌は県民にも馴染みが薄く、当の都道府県職員ですら知らない場合もあるのに対して、長野県における県歌「信濃の国」はその知名度・浸透度とも隔絶している。今はそれほどでもなくなったがかつては「県民なら必ず歌える」「むしろ歌えないのはよそ者」等と言われたことすらある……らしい。
1番の「海こそなけれ」、5番に出てくる偉人の知名度が軒並み微妙、6番の信越本線横軽区間が廃止されているなど少し切ないところもある。
歌い継がれた理由
「信濃の国」が歌い継がれた理由としては、
・県内の具体的なもの(地理、産業、歴史)を、各地域にわたってできるだけ均等に登場させている。
・作成した時期が古いうえに、地域ナショナリズムが奨励される時期にあたっていた。
・一体意識を持たせないと分裂しかねない。
などが挙げられる。
一方、他の都道府県の歌は、
・ほかの古い県民歌が、県内の対立や占領期の検閲で歌いにくい時期があった(秋田県、山形県など)。
・戦後に作られた県民歌でも、制定時の知事が代替わりした後に県民歌が作り変えられたり存在自体を消されたりした(青森県、兵庫県、愛媛県など)。
・県内の人口比率が高い都市の市歌の方が有名(神奈川県)。
・そもそも県民歌が作られたことがない(大阪府、広島県、大分県)。
といった理由で普及せず、結果的に「信濃の国」だけが有名となった。
(参考:Wikipedia「都道府県民歌」など)
成立の経緯と伝説
信濃国の各地域は前から関係が疎遠で、さらに中信・南信(松本市あたりとそれより南)は、明治時代初期には飛騨国(現在は岐阜県内)と合わせて「筑摩県」という県だった。
が、中信と飛騨の間の交通が冬にほぼ途絶するような有様で(安房トンネルができるまで、冬には自動車が通行できなかった)、筑摩県庁が焼けてしまったということもあり、全国的に小規模な県が統廃合されていたあおりも受けて、中信・南信は同じ信濃国である長野県へ、飛騨は岐阜県へ分割併合された。
(ちなみに長野県も、廃藩置県より前に、中野県の県庁が焼けてしまったせいで県庁が長野へ移転して「長野県」に改名している)
そんな事もあり、長野県の各地域はやっぱり関係が疎遠なままで、「同じ信濃国だろ」と言われても、隣接する他県との関係の方が深いのは変わらなかった。さすがにそのままでは長野県庁としても困るわけで、何とか一体感を持ってもらいたい活動の一環が「信濃の国」だったわけである。
そして1876年の(現)長野県誕生から70年余り後、1948年に中信・南信選出の県会議員による分県運動が激化。成立するかと思われたころ、議論している会議場のどこぞから(それ以外の地域からの傍聴者だという)
「しーなーのー のくーにーはー じーーっしゅうううにー」
と言う歌が響き、(リン・ミンメイですか)、みんなで大合唱(していないとも)の末分割案がうやむやになってしまった。という伝説がある。
その他「敗戦直後この歌を歌って団結し米軍基地の建設を撤廃」「佐久の高校がこの歌で応援されて全国大会の結構なところまで行く」という、熱血マンガの超展開みたいな伝説は結構ある。