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平間重助の編集履歴2021/12/04 21:17:40 版
編集者:鬼神丸国重
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来歴

水戸藩出身とされ、下村嗣次(芹沢鴨)から剣術を学び神道無念流の目録を得る。

文久3年(1863年)2月、同じ水戸出身の芹沢を筆頭として新見錦平山五郎野口健司と共に浪士組に参加し京に上洛する。その後、芹沢や近藤勇らと京に残留し、京都守護職の会津藩御預りの壬生浪士組(新撰組)を結成する。平間は副長助勤兼勘定役を務め、芹沢ら水戸派と行動を共にする。

八月十八日の政変を得てその働きが評価され、壬生浪士組は会津藩から新撰組の名を拝命する。

しかし、その頃の芹沢ら水戸派は壬生浪士組時代に商家への恐喝や大和屋焼き討ち事件などを起こしたことで朝廷から逮捕命令が下され会津藩からも内密に近藤、土方らに平間を含め芹沢一派粛清の命令が下された。9月15日にまず新見が法度違反により切腹し(諸説あり)、その3日後の9月18日に新撰は島原の角屋で隊士総出の宴を開き平間もこれに参加、芹沢と平山は泥酔していたが、平間は平素からあまり酒を飲まず、さほど酔ってはいなかった。その後、水戸派(野口を除く)は壬生の屯所へ戻りそれぞれの愛人と就寝した。その夜、複数の刺客が押し入り芹沢と妾のお梅、平山は暗殺された。平間は襲撃場所から最も遠かった玄関口の左手の部屋で馴染みの糸里と就寝したため難を逃れ逐電した。

刺客は試衛館派の土方歳三山南敬助沖田総司原田左之助とする説がある。

その後水戸派の野口は同年12月に切腹しており、芹沢の同志の中では唯一の生き残りとなった。

消息

八木邸逃走後平間は一切の消息を絶ったため、郷里には戻らなかったと推測されている。

各地を流浪した末に岩手県で養蚕教師となり、諏訪部重助と名前を変え、明治23年(1890年)まで存命したという説があるが定かではない。

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