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秋山信友の編集履歴

2022-01-25 12:23:46 バージョン

秋山信友

あきやまのぶとも

秋山信友とは、武田信玄・勝頼に使えた戦国武将である。 1527~1575。

概要

秋山信友は武田信玄勝頼の2代に使えた人物。

信友は実名ではなく、虎繁が実名とされるが便宜上、信友に統一する。

戦場では猛烈に敵軍に突っ込み蹴散らしていく猛将であった事から、敵である徳川家康から『武田の猛牛』と呼ばれ、後の世に2つ名として定着した。しかし、単なる武勇に秀でた脳筋ではなく、調略や流言を用いて敵軍の弱い所を突く軍略家でもあった。

さらに、美濃方面の外交は信友の担当であり、織田信長との同盟締結は信友の働きによるものが大きく、信長と直接面会して太刀を授かっている。

武田家は、その後織田家と敵対するのだが、信友は美濃に攻め込み、岩村城とその城主である信長の叔母おつやの方の心を陥落させる。

その後、信友とおつやの方は結婚するのだが、幸せな日々は長くは続かなかった…


生涯

1527年信友は生まれる。父親は秋山氏の人物であることは分かるが、誰かが父親かはっきりとはしていない。


信友が初めて記録に出てくるのは、1549年に武田家に使える武士の1人に軍役免除の文書を出している。この時の信友は16歳とは非常に若く、将来武田家を支える重臣として期待されていたと考えられる。


1553年には、村上義清の居城であった葛尾城を晴信は陥落させ、その戦後処理を信友に担当させている。


1555年頃には、両角虎貞共に斎藤道三の動きを監視を、晴信の命令で行っている。


1559年までには、大嶋城の城代並びに伊那郡代任命され、伊那郡を統治しながら、奥三河や東美濃で武田家の軍事・外交を担うことになる。


1565年には、武田家と織田家の同盟締結の取次を行い、3年後には信長と直接謁見し、武田家と徳川家が今川氏真の領国である駿河と遠江に同時に攻め込み、駿河と遠江を折半すると話し合いを付けている。が、それにもかかわらず、信友は徳川領である遠江を侵略し、家康から猛抗議されている。


1570年には突如2千兵で奥三河に侵攻し、遠山衆や山家三方衆5千で激突するも、事前に山家三方衆に対して中立を保つように調略を仕掛け、突出した遠山衆を深田に誘い込み尽く討ち取っている。


1572年に、信玄の西上作戦では山県昌景の別働隊共に奥三河に侵略し、多くの城を陥落させている。そして、以前から調略を仕掛けていた美濃の岩村城の調略が成功すると、家臣を使って乗っ取らせている。


1573年には、おつやの方と祝言を上げている。2人は仲睦まじい夫婦だったようだったと伝わっている。


しかし、同年の4月12日主君武田信玄が亡くなってしまう。その後、家督は武田勝頼が継いだのだが、1575年に長篠の戦いで大敗。その間隙をついて織田信忠河尻秀隆らの大軍1万に包囲されてしまう。信友とおつやの方は半年近くも城を守るも、勝頼からの援軍は間に合わず落城を迎える。2人は自らの命を引き換えに城兵の助命を乞うも、信長・信忠は城兵を皆殺しにし、2人を処刑した。

信友は享年49であった。

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