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勝山太夫の編集履歴

2022-01-29 23:34:12 バージョン

勝山太夫

かつやまだゆう

江戸時代の初期に活躍した吉原遊郭の遊女(太夫)である。

概要

江戸吉原遊郭において活躍していた遊女であり、等級は当時の最高位である「太夫(たゆう)」だった。

元々は湯女(私娼)であり、後に遊郭の遊女に転身した変わり種である。


人物

実は八王子の良家出身(豪農とも武家ともいわれている)であり、父親と大喧嘩した末に家を飛び出し、江戸に出て神田の堀丹後守(堀直寄)の屋敷前にある風呂屋である紀伊国屋風呂市兵衛の運営する『丹前風呂』に、なんと湯女として勤めるようになる。


その際は、袴を履き大小の刀を腰に差して小唄を口ずさむ男装した姿で現れ、その派手な出で立ちは大変評判となり、江戸で彼女のこの常識に囚われない新たに開拓されたファッションを真似る人が続出。

浴衣の上に羽織る綿入は「丹前(現在は“どてら”とも)」と呼ばれ男性が真似し、自分で独自に考案した上品な武家風の髪型は「勝山髷(丸髷)」と呼ばれ女性が真似するようになり、当時のファッションリーダーのようになっていった。


その後、湯女が禁止され取り締まられるようになると、彼女はその人気ぶりから吉原にヘッドハンティングされて遊郭の遊女となり、花魁道中では湯女の頃から行っていた足を踏み出す際に大きく外側に回して進む外八文字を踏んで、その威風堂々とした勇ましい道中が話題沸騰し、この外八文字は吉原の遊女が花魁道中する際の“型”として、以降も引き継がれることとなった。


歌舞音曲を好み、和歌や書も嗜むなど芸事や教養にも大変優れていた彼女は、元々あった人気も手伝ってメキメキ頭角を現し、人気と実力を兼ね備える遊女の最高位の等級である太夫にまで上り詰めた。

しかし、頂点を極めた後に忽然と姿を消し、真意は不明だが一説によれば母の訃報を知って、供養のために巡礼の旅に出たとされている。


だが上述したように、彼女が江戸文化に与えた影響は非常に大きく、伝説的な存在なっている。


関連タグ

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