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皇甫嵩の編集履歴

2022-03-15 22:18:00 バージョン

皇甫嵩

こうほすう

皇甫嵩とは、後漢末期の武将・政治家。字は義真。

概要

涼州安定郡朝那県の出身。


中平元年(184年)、大賢良師・張角を中心とする黄巾党が一斉蜂起(黄巾の乱)すると、皇甫嵩は左中郎将に任命され、討伐軍の司令官の一人となる。右中郎将の朱儁と共に潁川方面の黄巾討伐に向かった。


潁川黄巾軍の波才との戦いは、当初勢いのある相手に押されて劣勢となり、自身が籠る城を包囲された。だが、皇甫嵩は火攻めで波才軍を混乱させ、都から援軍に赴いた曹操や朱儁と共に、波才を撃ち破った。

皇甫嵩はこの功績で都郷侯に封じられ、以後も朱儁と共に各地を転戦して勝利し、さらに東郡黄巾軍の卜己を倉亭で破った。

そして、冀州方面の張角率いる黄巾本隊の討伐の命が下ると、広宗で張角の弟・張梁を討つとともに、病死していた張角の棺を壊して首を洛陽へ送った。さらに曲陽で張角の弟・張宝を討ち、黄巾の乱を鎮圧した。

黄巾軍討伐の功により、左車騎将軍に任命され、槐里侯に封じられた。だが、宦官の十常侍に賄賂を贈らず法令違反を上奏したことで、十常侍に讒言され、左車騎将軍を取り上げられた。


中平5年(188年)、陳倉が賊軍の攻撃を受けると、皇甫嵩が左将軍に任命される。この時、指揮下に董卓がいたが、彼が提案する策を却下するなど折り合いが悪くなっていた。従子の皇甫酈は皇甫嵩に董卓の誅殺を進言したが、皇甫嵩は独断専行を避け、事の次第を上書した。この上書は董卓の知るところとなり、対立は決定的となった。


初平元年(190年)、朝廷の混乱に乗じ権力を握った董卓は、皇甫嵩の殺害を図る。董卓は城門校尉に任命すると称して長安から召還し、皇甫嵩は部下の反対を押し切り帰朝したところを逮捕・投獄された。危うく死刑になりかけたが、董卓と親しかった子の皇甫堅寿が必死の嘆願をしたため赦免される。


初平3年(192年)、董卓が呂布によって暗殺された後 皇甫嵩は征西将軍に任命され、さらに車騎将軍に昇進した。その年の秋に太尉に任じられたが、冬に流星があった事によって罷免された。


興平2年(195年)頃に病死した。


三国志演義』にも登場するが、非常に影が薄い。


関連タグ

三国志 何進 朱儁 董卓

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