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日清戦争の編集履歴

2012-03-24 16:13:58 バージョン

日清戦争

にっしんせんそう

明治27年から28年にかけて起きた日本と清国の戦争。

近代的な国家の建設を目指す日本は、独立主権国家を基本単位とするヨーロッパの国際法秩序を採り入れようとしていた。

しかし、みずからを中華帝国として周辺諸国に主従関係を強いる清国と、しばしば朝鮮の主権をめぐって対立した。

日本は、朝鮮が独立国として存在することを日本にとって肝要だと考えたのに対し、清国は、朝鮮をあくまでも自国の属国であると主張したのである。


明治27年5月に朝鮮で東学党の乱が起きると、清国は朝鮮政府の要請に応えて属邦保護のために派兵した。

これに対抗して日本も直ちに派兵し、乱は収まった。

そこで日本は、両国共同による朝鮮の内政改革を提案し、清国と朝鮮との宗属関係を断ち切ろうとした。

しかし、これを清国が拒否したので、両国の対立は決定的なものとなり、同年7月、豊島沖の海戦によって、日清戦争は始まったのである。


日清戦争の開始当初、欧米の新聞は大多数が清の勝利を予想し、小国日本の軽挙妄動を惜しんだ。

ところが、明治維新を成就して以来の日本は、国内改革を進めて立憲政治を実現し、よく訓練された軍隊を持っていたのに対し、専制体制の清は国内改革に立ち遅れ、強大な国力を存分に発揮することができず、戦争は日本がむしろ優勢となった。


山県有朋の率いる第一軍は、明治27年10月末に鴨緑江を渡って満洲に進軍し、大山巌の率いる第二軍は、28年3月までに遼東半島を完全に制圧した。

一方、伊藤祐亨の率いる日本艦隊は、清の北洋艦隊を27年9月の黄海海戦で撃破した。


そこで明治28年4月、下関において日清間の講和条約が結ばれた。

この条約によって、清は日本に対して、朝鮮独立の承認、台湾澎湖島・遼東半島の割譲、賠償金約3億1千万円の支払いなどを約束したのである。

けれども、以前から満洲進出の機会をうかがっていたロシアは、日清の講和条約が結ばれるや否や、ドイツフランスとともに、遼東半島を清へ返還するよう日本政府に申し入れてきた。

その当時、これらの大国に対抗する力のなかった日本政府は、やむなく返還に応じた。


天皇・皇后

日清戦争中、明治天皇は前線の将兵に少しでも近い所でという思し召しから、広島の第五師団司令部を大本営にあてられた。

その狭い一室で8ヶ月間も、日々の御政務をおとりになったのである。

とりわけ戦況報告は、深夜でも上奏するようにと仰せられ、燈下に地図を広げて細かくご聴取になることも度々であったという。


皇后(昭憲皇太后)は日清戦争の際、傷病兵のことを大変ご心配になられた。

たとえば、侍医を陸軍に遣わして包帯の種類や製法上の心得などを詳細に問わせられた。また、みずから白衣を召して、宮中の一室で女官とともに日々包帯の製作に勤しまれたが、その包帯は直ちに予備病院や戦地の野戦病院などへ下賜されている。

また、大婚二十五年の祝典の際に全国から献上された真綿を、寒気に悩む出征軍人のために下賜された。

しかも、その御手許金から義手・義足の製作費用をご支弁になられた。それによって作られた義手・義足(150ほど)の一部は、清国の捕虜10数名にも与えられたという。

そのうえ明治28年の3月、広島へお出ましになり、22日から一週間、広島陸軍予備病院および呉海軍病院において、親しく傷病将兵を慰問された。まず士官患者一人一人に枕元でお言葉を賜り、ついで下士兵の重患者にもお言葉をおかけになり、さらに清国の負傷兵の病室も訪れておられる。

なお、その思し召しにより、御名代として、小松宮妃が熊本福岡佐世保の各陸海軍病院へ派遣されたこともある。

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