第二次世界大戦中、ソ連が開発・運用した自走砲で、戦力外になっていたT-70軽戦車の車体を流用して造られた。
ソ連での自走砲開発は1930年代から続いていたが、砲兵との縄張り争いにより頓挫していた。
しかし、第二次世界大戦が始まるとドイツ軍のIII号突撃砲の活躍に刺激されて研究が進み、ドイツと開戦すると前線では一台でも多くの戦闘車両が求められた。
1943年1月、ギンツブルク技師がT-70軽戦車のシャーシにZiS-3/76mm野砲(ドイツ軍から「ラッチュ・バム」と仇名された)を搭載するSU-76を設計した。
当初戦闘室は密閉式だったが、排煙がこもってしまうため上部装甲は撤去された。
クルスクの戦いの頃から実戦投入され、6月から改良型のSU-15、10月からオープントップ型となったSU-15Mが生産を開始。16,698輌も生産された。
ソ連にとって安価な自走砲を大量に運用できる事は有意義だったが、防御力が低いため戦車の代用として使われると損害が多く、兵士たちからは「雌犬」、「裸尻のフェルディナント」などの蔑称で呼ばれた。
1945年3月のバラトン防衛作戦(ドイツ側では「春の目覚め作戦」)ではドイツのSS装甲軍を相手に巧みな機動防御戦を行い攻勢を阻止した。