概要
王莽による簒奪後の新末後漢初の動乱期に中国を再統一し、漢王朝の再興として後漢(本人はただ“漢”としたのみだが、後世では便宜的に後漢あるいは東漢と呼ばれる)王朝をたてた。廟号は世祖。
三国志の劉備のように「漢王朝を復興する!」と主張した人物は多いが、本当に復興できたのは劉秀のみ。
日本での知名度は前述の劉備や前漢の高祖・劉邦に比べて低く、「『漢委奴国王』の金印を日本に贈った人」程度である。しかし、完璧超人な名君として中国での評価は高い。
人物
端的にまとめると、
- 一度滅んだ王朝を再興するという歴史上非常に珍しい偉業を成し遂げた人物。
- 武将として非常に優秀。個人戦にも優れ、学問に堪能。人間性が面白くて人望があり、政治家としても能力が高い。
- 相思相愛の美少女幼馴染と結婚し、皇帝にまで出世した上に優れた部下に恵まれ、息子まで優秀。
と、実在の人物というより少年漫画やなろう系小説の主人公かと突っ込みたくなる人である。
経歴
紀元前5年生まれ。若い頃は温和で大人しく、多少引き籠りな所もあったらしい。
紀元22年、長兄・劉縯の挙兵に同行する形で参戦。この際、馬ではなく牛に乗って軍に参加したという。
紀元23年夏、昆陽の戦い。作戦を立てた上での行動であるが、42万の敵軍に3千の兵で突撃して完勝。兄・劉縯も武功をあげ、それによって兄弟の名声は高まった。
しかしその結果、主君である更始帝・劉玄に警戒されてしまい、劉縯は無実の罪で劉玄に誅殺されてしまう。劉秀もまた危険視されていたが、徹底した謝罪や黙秘によって自身に累が及ぶのを防いだ。
同年冬、劉玄に命じられ河北に赴任。酷寒と飢えの中、僅かな部下と共に厳しい戦いを強いられたが、翌24年には数十万の大軍を指揮するまでに勢力を拡大。
紀元25年、皇帝に即位。部下からの即位の上奏を二度拒否するも、三度目で受け入れたという。本人曰く、「なりたくなかった」。
紀元36年、中国統一を果たす。
皇帝としての大雑把な業績は以下の通り。
29年、太学(官僚の教育機関)を設立し、儒教を振興。
30年、租税を収穫の1/10から1/30にまで減税(前漢時代と同じ)。
31年、売人法制定。37年にも略人法を公布し、人身売買を禁止した。
35年、奴婢と良民の刑法上の平等を宣言。「天地之性、人為貴」(この世界においては、人であることが尊い)との詔を発したと記されている。
36年、官吏の登用制度を改定。優秀な人物を推挙するシステムを全国規模で構築。
39年、耕地面積と戸籍の全国調査を施行。国家の統治・財政を確立。
40年、新たな貨幣の鋳造、および貨幣制度の整備。
このほか、何度かの奴婢解放や、奴隷所持の禁止、徴兵制の廃止と屯田兵の導入などなど。
後世の歴史家に言わせると「本人が優秀すぎて他の時代なら有名になれるはずの部下が全然目立たない」。
紀元56年、病没。
その他
劉邦や劉備に比べて面白みに欠けると言われることもあるが、実は人間味あふれる愉快な逸話が多い。
- 部下と一緒に宴会で泥酔して騒いだ。
- 出身地のおばちゃんを集めて宴会をやった。※この時すでに皇帝である
- 真面目な部下との会議中に美女の屏風絵を盗み見て叱られる。
- 連日の夜遊びに激怒した部下(奥さんという説もある)に締め出されて野宿した。ちなみにこれも皇帝になってからの話で、最低2回は野宿している。
- 聖王聖王と連呼されるので「うるさい。聖王って呼ぶの禁止」と宣言した。
- 地方の役人からすら、「金にせこい」だのと言われる。
- ダジャレ好きで、妻である陰麗華を辟易させていた。
しかしながら、
- 無名の頃に、悪政の被害を受けていた逃亡者を匿う。
- 10万人以上の降伏した敵兵を前に鎧もつけずに巡回してみせる。
- 皇帝即位後、不正をした文官は躊躇せずに処罰。
といった毅然とした逸話も多い。
また、部下も含めて妙に文学的素養が高く、本人の「柔よく剛を制す」や部下の「烏合の衆」など、中国に詳しくない人でも口にするような言葉が劉秀の時代に頻発されている。実際に好学だったようで、三国時代の呉の孫権が配下の呂蒙に学問の大切さを説いた時、曹操と共に引き合いに出されている。