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伊達政宗(大膳大夫)の編集履歴

2023-01-04 22:54:06 バージョン

伊達政宗(大膳大夫)

だてまさむね

伊達家9代目当主にして中興の祖。鎌倉公方・足利満兼を相手に「伊達政宗の乱」を起こした。17代目当主と区別するため大膳大夫政宗と呼ばれる。

プロフィール

生没:正平8年/文和2年(1353年)~応永12年9月14日(1405年10月7日)

父:伊達宗遠

母:結城宗広の娘

正室:石清水善法寺法印通清の娘・輪王寺殿(足利義詮の側室で義満の生母・紀良子の妹)

弟:大條宗行(サンドウィッチマン伊達みきおの先祖)


17代目当主・藤次郎政宗と区別するため官途名から大膳大夫政宗と呼ばれる。

概要

8代目当主・伊達宗遠の嫡子として1353年に生まれた政宗は1377年に父から家督を譲られ9代目当主となる。

1380年ごろから出羽方面へと侵攻、置賜郡の長井氏を滅ぼし米沢城を手中に収める。末裔の17代政宗が1591年に葛西・大崎一揆扇動のかどにより豊臣秀吉に取り上げられるまでここを200年以上治める基盤を作った。


1399年、鎌倉公方・足利満兼から領土割譲を迫られたことや満兼が東北支配のために現在の郡山市に篠川公方として長弟・足利満直を、現在の須賀川市に稲村公方として三弟・足利満貞を派遣したことに政宗や大崎詮持らは反発。政宗と詮持は連携し甥で当時の将軍の義満も政宗を支持したため鎌倉府相手に反乱を起こす。しかし、1400年に詮持が結城満朝に攻められ自刃に追い込まれ、政宗も満直や上杉禅秀と戦うが利あらず出羽苅田城に籠る。しかし、寒河江元時や最上直家氏ら出羽の領主に苅田城を包囲され降伏を余儀なくされる(伊達政宗の乱)。


しかし、政宗は再起して再び戦うも1405年に高畑城にて死去した。


出羽侵攻などで勢力を広げ鎌倉府との戦いで名を上げた政宗は中興の祖としてたたえられ8代後の子孫に名前が付けられることになった。

子は嫡子・氏宗しかいなかったとされる。ちなみに氏宗の諱の「氏」の字は鎌倉公方・足利氏満(尊氏の四男・基氏の子、満兼の父)から授けられたものである。


よく政宗の諱の「政」の字は足利義政の政と間違えられるが義政よりかなり前の人物であり、義政の初名である「義成(よししげ)」の「成」の字は政宗の曾孫である伊達成宗がもらっている。


なお氏宗の嫡子・持宗(松犬丸)もまた祖父と父の死後、篠川・稲村公方に対し反乱(伊達松犬丸の乱)を起こし、永享の乱でも幕府勢の一角として鎌倉攻めに加わり持氏(満兼の子)や満貞らを自刃に追いやり、享徳の乱でも義政から(のちの古河公方である)成氏討伐の命令書を受けるなど鎌倉府との戦いに生涯を費やした。


余談になるが、政宗と持宗の反乱鎮圧に鎌倉方として対処した(犬懸)上杉禅秀も持氏に疎まれたり山内上杉氏との対立なとから、満隆(満兼の次弟)や持仲(持氏の弟)らと組んで持氏に反乱を起こし敗死している(上杉禅秀の乱)。


関連項目

東北勢 奥州 戦国武将 伊達政宗

サンドウィッチマン 伊達みきお

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