第15代ローマ元首アントニウス家初代当主
『慈悲深いアントニウス帝』の名称の方が近い五賢帝の4人目
非常に私公バランスが良かったのか
この皇帝の治世は『あまりに』淡々といったようで、『当時の伝記』が無い・・
しかしこの絶対権力者の在位期間は23年にも及ぶ
なおローマ人で史上初めて『中国』と接触した元首であり、
イギリス国王](大英帝国)のの理想像とされた
アントニウスピウスAugustus Pius 86年 - 161年
逸話 スキャンダル無しの汗まで管理する
TMPERATOR CAESAR TITVS AELIVS HADRIANVS ANTONINVS AVGVSTVS PONTIFEX MAXIMVS
名前 | |
---|---|
Caesar Titus Aelius Hadrianus Antoninus Augustus Pius | |
ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス・ボイオニウス・アリウス・アントニヌス | |
ラテン語 | Titus Aelius Hadrianus Antoninus Augustus Pius |
世没 | 86年9月19日 - 161年3月7日 |
- 第15代ローマ皇帝 就任:西暦138年7月10日 - 161年3月7日
- ネルウァ=アントニヌス朝の第4代君主。
彼はアウレリウス氏族の出身者として最初の皇帝であり、また皇妃大ファウスティナを通じてネルウァ=アントニヌス朝と外戚関係を持っていた。
妻の甥であるマルクス・アウレリウスと娘の小ファウスティナを結婚させた上でアウレリウスを後継者とし
娘と甥の間に生まれた孫コンモドゥスにまで3代に亘る家族間での帝位継承の基盤を作った。
こうした点から一部の歴史学者は
王朝の支配権がトラヤヌスの王統から外戚であるアントニヌスの一族へと移動したと見なし祖父アントニヌスから孫コンモドゥスまでの3代をアントニヌス朝と別称している。
慈悲深きアントニヌス
「アントニヌス・ピウス」(Antoninus Pius、慈悲深きアントニヌス)の名で知られるが、これは先帝ハドリアヌスが元老院から憎まれていたにもかかわらず、神として祭るように奔走したことが美談として受け取られたことに由来する。
『ローマ皇帝群像』はハドリアヌス帝によって処刑されることになっていた人々を救ったためであると主張している。
職掌
西暦138年7月10日、ハドリアヌス帝が病没するとアントニヌスは
皇帝インペトラル・カエサル・ティトゥス・アエリウス・ハドリアヌス・アントニヌス・アウグストゥス・ポンティフェクス・マキシムス
TMPERATOR CAESAR TITVS AELIVS HADRIANVS ANTONINVS AVGVSTVS PONTIFEX MAXIMVS
全名 | ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス・ボイオニウス・アリウス・アントニヌス(出生時) |
Titus Aurelius Fulvus Boionius Arrius Antoninus | |
ティトゥス・アエリウス・カエサル・アントニヌス(ハドリアヌスの代理元首) | |
Titus Aelius Caesar Antoninus | |
就任 | 138年7月10日 |
退位 | 161年3月7日(崩御) |
カエサル・ティトゥス・アエリウス・ハドリアヌス・アントニヌス・アウグストゥス・ピウス(即位時) | |
ラテン語 | Caesar Titus Aelius Hadrianus Antoninus Augustus Pius |
出生 | 86年9月19日:ラウィニウム(イタリア本土) |
崩御 | 161年3月7日:(74歳没)ロリウム(イタリア本土) |
廟 | ハドリアヌス廟(サンタンジェロ城) |
継承 | マルクス・アウレリウス(甥、娘婿) |
ルキウス・ウェルス(アウレリウスとともに元首) | |
配偶者 | 大ファウスティナ |
子女 | 小ファウスティナ(次女) |
王朝 | 五賢帝朝 |
父親 | ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス |
母親 | アリア・ファディラArria Fadilla |
生涯『汗まで管理する』
アウレリウス氏族出身。ルキウス・ウェルスとマルクス・アウレリウスの後見人として即位。トラヤヌスの曾姪でマルクス・アウレリウスの叔母でもある大ファウスティナと結婚、小ファウスティナを儲ける。
アントニヌスは元老院を尊重した事で安定して帝位は継承された。アントニヌスはハドリアヌスへの弾劾を取り下げるように元老院を宥めた
即位後
元首即位後マルクス・アウレリウスを財務官職にするも仕事や権限は無いに等しく皇帝不在の時に手紙を代読するといった秘書的な役割が精々だった。執政官としては二つの元老院議長の一人として議会を統制する立場であった。
アントニヌス帝時代の記録は乏しい部分があり、22年間という長期間の治世に対して大規模な公共建築も残さなかった。その代わりに帝国の法体系(ローマ法)や行政制度の改革に熱意を注いだ。
彼は革命的という程ではないものの、それまでのローマ法に重大な修正を加えようとした。
帝国がラテン人を祖とする国家としてだけでなく、もっと多様な人々を糾合する多文化・多民族の国家に転身する必要を強く感じ、アントニヌス帝は市民権や奴隷制に関する大胆な改革を志した。156年、70歳を迎えていたアントニヌスは目に見えて衰弱しており、まともに立つことも困難になりつつあった。
老いた皇帝は早朝の会議で眠らないように乾いたパンを口の中で噛み続ける習慣を行ったとも言われる。アウレリウスは叔父の補佐官として行動する機会が増え、皇帝の政務を一部代行するようになった。
崩御 平和の終わり
ある日、アルプス産のチーズを食べたアントニヌスはその夜に嘔吐と発熱を起こした。
161年3月7日、アントニヌスは病を押して議会を開くと自らの寝室に置かれていたフォルトゥナ神の銅像を「アウレリウスの寝室に移せ」と命じた。
言い終えるとアントニヌスはそのまま仰向けに倒れて息を引き取った