概要
勝男山という山が縁起が良く、この地の読みも秀吉の主君だった織田信長ゆかりの那古屋(名古屋)と同じ「なごや」という発音だった事から秀吉が気に入ったとされる。
だが、この地の支配者でもあった松浦一族の波多親(はた・ちかし)は「大規模な城の築城にこの地は狭く不向きである」と進言したが聞き入れられなかった。
黒田孝高を中心に築城されており、わずか9か月で完成にこぎつけている。
しかし築城後、井戸が不足するなど様々な問題が発生する羽目となり、果たして親の懸念は的中した。
規模は小田原城を凌ぎ大坂城に次ぐ広大さ(17ヘクタール)を誇り、ルイス・フロイスをして「野も山も一切空いたところがない」と言わしめるほどであった。
周囲には130以上の大名屋敷が並び、20万人以上が集まる経済の中心地として賑わった。
しかし、秀吉の死後は江戸幕府を樹立した徳川家康によって徹底的に破却され、資材は唐津城の築城に利用された。
秀吉とは真逆に李氏朝鮮との修好に腐心していた家康に朝鮮通信使復活のために朝鮮出兵の拠点を破壊して朝鮮側の印象を良くしようという狙いがあったとも、もしくはのちの島原の乱の原城のように反幕府勢力に利用されないためともいわれている。
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