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三八式歩兵銃の編集履歴

2012-05-12 19:02:04 バージョン

三八式歩兵銃

さんはちしきほへいじゅう

三八式歩兵銃(さんはちしきほへいじゅう、さんぱちしきほへいじゅう)または三八式小銃(さんはちしきしょうじゅう、さんぱちしきしょうじゅう)は、1905年(明治38年)に大日本帝国陸軍が採用した小銃。

概要

日清戦争で主に使用された村田経芳の十三年式・十八年式村田単発銃に代わる、有坂成章開発の近代的な国産連発式小銃である三十年式歩兵銃は、1904年から翌1905年にかけて行われた日露戦争において帝国陸軍の主力小銃として使用された。三十年式歩兵銃自体は当時世界水準の小銃であったが、満州軍が中国大陸の戦場で使用してみると、同地が設計時に想定した以上の厳しい気候風土であったことから不具合が頻発した。このため、有坂の部下として三十年式歩兵銃の開発にも携わっていた南部麒次郎が中心となり本銃の開発が始まった。あくまで三十年式歩兵銃をベースとする改良であったため、銃自体の主な変更点は機関部の部品点数削減による合理化のみであり、また防塵用の遊底被の付加や弾頭の尖頭化を行った。

改良は順調に進み、本銃は1905年に仮制式採用され、翌1906年に制式採用された。部隊配備は日露戦争終戦後の1908年3月から始められ、約2年ほどで三十年式歩兵銃からの更新を完了している。

本銃の初の実戦投入は第一次世界大戦であった。以降、三八式歩兵銃は日本軍の主力小銃としてシベリア出兵満洲事変上海事変日中戦争、第二次上海事変、張鼓峰事件、ノモンハン事変で使用された。


途中、戦間期の1938年から大口径実包である7.7mm×58弾を使用する次期主力小銃が開発され、これは1939年に九九式小銃として制式採用され、三八式歩兵銃の後続銃として順次部隊に配備された。そのため三八式歩兵銃は1942年3月をもって名古屋陸軍造兵廠において生産を終了したが、時局の不都合や国力の限界から完全には更新することができなかったため、第二次世界大戦においても九九式小銃とともに日本軍主力小銃の双璧として使用された。


総生産数は約340万挺であり、これは日本の国産銃としては最多である。また、長期間に渡って主力小銃として使用されていたため、騎兵銃型・短銃身型・狙撃銃型など多くの派生型も開発・使用され、外国にも多数が輸出されている。


呼称

制式名称たる三八式歩兵銃の「三八式」の正式な呼称は「さんはちしき(さんはちしきほへいじゅう」である。しかしながら、呼称時に語呂がいいことから「さんぱちしき(さんぱちしきほへいじゅう)」と称されることも多い。

また「三八式小銃」という名称も、大正時代初期頃から既に帝国陸軍内部では上層部を含めて公式的に使用されている。

なお、英語圏を中心とする日本国外においては「Type 38 rifle」「Arisaka type 38 rifle」「Arisaka M1905 rifle」「Arisaka 6.5mm rifle」または単純に「Arisaka rifle(アリサカ・ライフル)」と呼称されることも多い。本銃の開発は南部麒次郎陸軍砲兵少佐によって行われたものであるが、原型となった三十年式歩兵銃の開発者が有坂成章陸軍砲兵大佐であることに由来よる。

開発・製造

遊底被を外した状態。型式を表す「三八式」と、皇軍の兵器であることを表す「菊花紋章」との刻印がなされている

日露戦争における主力小銃であった三十年式歩兵銃は、機関部の構造が複雑なうえ、分解結合の際に撃針が折れる故障が時折発生した。また、戦地の満洲をはじめ中国大陸が開発時の想定以上の厳しい気候風土であったため、大陸特有の細かい砂塵が機関部内に入り込み作動不良を引き起こした。こうした欠点を補うためも含めた主な改良点は、機関部の構造の簡素化・遊底と連動する遊底被の付加・三八式実包の採用・扇転式照尺の装備・弾倉底の落下防止・弾倉発条をコイルスプリングから板バネに変更・手袋着用時のための用心鉄、トリガーガードの拡大である。中でも機関部構造の簡略化は画期的なものであり、マウザーGewehr98よりもさらに3個も部品数の少ない、計5個の部品で構成されている。

また、1921年4月に発錆防止のため、施条を6条から4条に変更する改良も追加でされている。

製造技術

当時の日本の技術水準に合わせ、構造はごく単純化されていたが、主に最終工程の組み立てに当たっては熟練の職工の手により調整していくしかなかった。先進列強各国の兵器において取り入れられ始めていた部品の互換化は、工業水準の低さにより完全に行うことが出来なかった。日本が小銃の部品互換性を実現するのは後継の九九式小銃まで待たねばならない。

木材部分には、国内産のクルミが使用されている。銃床部は耐久性向上のため2個の木材部を上下に組み合わせている。

金属部分、特に銃身鋼材については、軍用銃には珍しいタングステン合金銃身鋼が使用されている。この銃身鋼材は八幡製鉄所で精錬し、鋼材を陸軍の各工廠で加工した。銃身鋼材を国内精錬とした初めての銃であるが、原料は国内調達ができず、タングステンこそ山口県産の重石鉱を使用したが、鉄鉱石は中国の鞍山産を使用している。また、銃身鋼の製法パテントはオーストリアのボーレル社から取得している。また、銃身内部はクロムメッキが施され、製造工数は増えるが、耐久性の高いメトフォード型ライフリングが彫られていた。このクロムメッキによって銃身の寿命は発射数8000発程度と想定されていたが、兵士たちが金属ブラシで過剰に手入れした結果、メッキがはがれ、想定した寿命より短命になるケースも多かった。

運用

完全軍装の歩兵は弾薬5発を1セットにした挿弾子(クリップ)を30発分収めた前盒(弾薬盒)を前身頃に2つ、また60発入の後盒1つをそれぞれ革帯(ベルト)に通し計120発を1基数として携行した。銃剣には三十年式銃剣を使用。

基本的に補給効率を考慮して三八式歩兵銃を装備する中隊には、同じ三八式実包を使用する三八式機関銃、1923年から1940年にかけては十一年式軽機関銃、ないし1930年代後期から敗戦までは九六式軽機関銃が配備される。あくまで支那事変、1930年代後期の日本軍の小隊火力の中心は軽機関銃と重擲弾筒であり、1個小隊は三八式歩兵銃のほか、第1~3分隊に各軽機関銃1丁と第4分隊に八九式重擲弾筒3門が定数であった。


また、「日本軍は明治時代に開発・採用された旧式の三八式歩兵銃で第二次大戦を戦った」という批判があるものの、第二次大戦期における主要各国軍の小銃は総じて19世紀末期から20世紀初頭に開発・採用されたもので、これらは三八式歩兵銃および原型の三十年式歩兵銃とは同世代であり批判は見当違いである。

ボルトアクション式小銃は1900年前後に既に「完成の域」に達した銃火器であり、各国はその時代の小銃をベースに細かな改良を施しながら第二次大戦終戦しばらくまで主力装備として扱っている。


戦後の使用

第二次世界大戦が終了すると直ちに日本軍の武装解除が行われ、東南アジア戦線では三八式などを現地勢力が所持するようになった。のちのベトナム独立戦争(第一次インドシナ戦争)では独立派勢力がこの三八式を使用したとの記録もあり、またベトナム戦争でもベトコンが使用していたという記録が有る。


批判

「日本軍は旧式のボルトアクション式小銃を主力として、半自動小銃を主力とするアメリカ軍と戦った時代遅れの軍隊。」という批判もあるが、アメリカ軍自体もM1ガーランドの配備遅延により1942年初期(第二次大戦初中期)まではスプリングフィールド M1903が依然主力小銃であり、第一次フィリピン戦など太平洋戦争初期の戦いではアメリカ極東陸軍がこのM1903で日本軍と戦火を交えている。また、上述の通りドイツ・ソ連・イギリス・イタリア・フランスでは一貫してボルトアクション式小銃が第二次大戦における主力である

なお、日本を含む第一次大戦以降の各国陸軍の戦闘ドクトリンにおいて、歩兵火力の要は小銃ではなくあくまで機関銃であることに留意する必要がある。

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