西ベルリンとは現在のベルリン西半分の地域にあたり、冷戦時代には西ドイツの飛地であった。
第二次世界大戦後にドイツは、東部がのちに言う東側の盟主ソビエト連邦に、西部がアメリカ合衆国・イギリス・フランスといった西側に属する国家に分割占領された。ベルリンの界隈はのちに東ドイツとなるソ連による占領地域、東部に位置していたが首都である為これも4ヶ国が分割占領した。分割占領の目的はドイツの非軍事化、ナチス解体、民主化であった。
しかし、目指す体制が社会主義と資本主義で全く違った東西陣営は程なく鋭い対立に陥る。1947年には東西占領地は異なる通貨を導入し、1948年にソ連は西側に妥協させることを狙い、周囲の東側占領地を動かして西ベルリンを封鎖する。電気・給水・食料全てが絶たれた西ベルリン200万人の市民生活は窮地に陥るが、西側は大規模な物資輸送作戦で危機に対処する。「ベルリン大空輸」である。延べ27万機が230万トンの物資を運び、ついにソ連は諦めて10ヶ月で封鎖を解除した。これを受けて1949年には東ドイツと西ドイツが別れて国家として成立する。西ベルリンは周囲を東ドイツに囲まれた状況になった。西ベルリンは形式的には西ドイツの一部ではなく、西側諸国の占領地とされていた。このため、西ベルリン選出の国会議員は西ドイツ国会での採決の権利に制限があった。
西ドイツは急速に経済復興していくと、西ベルリンは東側諸国に開かれた「資本主義社会のショーウィンドウ」として繁栄を極めた。復興の遅れる東ドイツからは西ベルリンに雇用を求める人が増え、さらには豊かな西ドイツに亡命を求める東ドイツ国民は、出入りが自由な西ベルリンを亡命ルートに用いるようになる。これに堪りかねた東ドイツ政府は1961年8月13日にベルリンの壁を建設して西ベルリンへの越境を物理的に阻止した。この後1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊して東西ベルリンが一つになるまで、数多くの亡命失敗による犠牲者を生み出すことになった。 ⇒ ベルリンの壁参照