共産主義インターナショナル
きょうさんしゅぎいんたーなしょなる
共産主義インターナショナル(コミンテルン)公式讃歌
「コミンテルン讃歌(Гимн Коминтерна/ギィムン・コミンテルナ)」
「我々の任務は、労働者階級の革命的経験を統括し、
日和見主義及び社会愛国主義の朽ちかけた不純物を運動より一掃し、
真に革命的な国際プロレタリアートの全てのカを結集し、
それによって全世界に於ける革命の勝利を容易ならしめ、
且つ促進するにある。」
─1919年3月2日、国際共産主義者会議/共産主義インターナショナル(コミンテルン)創立大会に於ける宣言─
概要
共産主義インターナショナル/略称:コミンテルン・コミンターン(きょうさんしゅぎいんたーなしょなる/ロシア語:Коммунистический Интернационал/略称:Коминтерн[カムニスチーチェスキイ・インテルナツィアナール/略称:カミンテールン]〈英語:Communist International/略:Comintern〉)
別名:第3インターナショナル/略称:第3インター(ロシア語:III Интернациона́л/トゥリー・インテルナツィアナール)、国際共産党
など。
共産主義インターナショナルは、1919年から1943年まで存在した国際共産主義運動及び革命政党・組織の指導機関・統制組織である。
世界単一共産党「国際共産党」として世界各国に支部と位置づける各国共産党を設立し、指導と援助を行った。
かつての国際社会主義者大会(第2インターナショナル)で最左翼を占めたレーニンらロシア共産党(ボリシェヴィキ)〔旧・ロシア社会民主労働党多数派“ボリシェヴィキ”〕を中心として、その呼びかけに応じて本部の置かれたモスクワに19の組織、グループの代表が集まって創立された。
党名として「共産党を名乗ること」を原則として、イデオロギー的にはスターリンによって解釈された「マルクス・レーニン主義」、組織的にはボリシェヴィキの組織原則であった「民主集中制」の二本柱が各国共産党を拘束するものとされ、これに基づいて各国共産党のイデオロギー、戦略・戦術、行動様式、組織原則などが確立されていった。
これら世界各地のかつて世界に存在したコミンテルン支部は、100を超える各国共産党などの政党の真の起源となり、コミンテルンが存在した当時は、モスクワの執行委員会の決定への絶対服従を規定されていた。その為、これらの要件に当てはまる共産党は、コミンテルン生え抜きの共産党である確率が高い。
このようにコミンテルンは、かつての国際社会主義者大会(第2インターナショナル)に比べ、はるかに強固な国際的団結と規律をもち、ソ連という社会主義国家を支柱とするに至った。
コミンテルンは、その経緯からして各国の共産主義革命を支援しロシア10月革命を世界に拡大する事による世界革命の実現を最大の目標とし、とりわけドイツ革命と、それに続く欧州革命の成功を目指していたが、レーニン死後にスターリンが一国社会主義論を打ち出したことで役割が変わり、ソ連の外交政策を擁護する活動が中心になっていった。
第二次世界大戦中の1941年、独ソ戦の勃発に伴い、ソ連がアメリカ・イギリスと共に連合国を形成したことによって名実ともに存在意義を失い、1943年5月に解散した。
詳細
- 結成:1919年3月2日(国際共産主義者会議/共産主義インターナショナル創立大会)
- 解散:1943年5月15日(共産主義インターナショナル執行委員会幹部会による共産主義インターナショナル及び共産主義青年インターナショナルの解散決議[6月10日に全機関の完全廃止])
- 前身組織:国際社会主義者大会(第2インターナショナル)・ツィンマーヴァルト会議(ツィンマーヴァルト左派)
- 後継組織:共産党・労働者党情報局(コミンフォルム/スターリン派《主流派》)、第4インターナショナル(FI/トロツキー派《非主流派》、左翼反対派)など
- 執行委員会本部所在地:ソビエト社会主義共和国連邦/ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国/モスクワ州/モスクワ市/ゴーリキー通り10番地「ホテル・ルックス」(通称:「世界革命参謀本部」)
- 会員・参加数:57ヶ国・65の共産党/代表者510名が出席(1935年7月25日から開催、共産主義インターナショナル第7回大会)
…会員数・参加数の推移
1919年30ヶ国19党54名(創立大会)→1924年49ヶ国510名(第5回大会/レーニン死後スターリン体制最初の大会)→1928年57ヶ国532名(第6回大会/最大規模)→1935年57ヶ国65党510名(第7回大会/最後の大会)
- 機関紙:インターナショナル新聞通報(インプレコール/英語:International Press Correspondence・略:Inprecor/ロシア語:Инпрекор/ドイツ語:Inprekorr)紙
- 公式シンボルマーク:地球と鎌と槌
- 共産主義インターナショナル(コミンテルン)公式讃歌(1931–1943)
「コミンテルン讃歌(Гимн Коминтерна/ギィムン・コミンテルナ)」
《別名:労働者達の歌(Песня трудящихся/ペースニャ・ トルヂャーシシィスィヤ)》
[1番]
労働者よ、声を上げよ!
戦線へ加われ!
労働者よ、声を上げよ!
戦線へ加われ!
闘争へと前進せよ、前進せよ、前進せよ!
腕を組め!武器を取れ!
プロレタリアートよ、
自らの為に闘争するのだ!
プロレタリアートよ、
自らの為に闘争するのだ!
- 政治思想
- 政治目的
時期 | 目的 |
---|---|
《前期》 | ドイツ革命の成功 |
ロシア十月革命の世界革命への発展 | |
共産主義思想の普及と活動家の育成 | |
《後期》 | ソビエト連邦政府の防衛 |
国際統一戦線及び人民戦線の形成 | |
共産主義思想の普及と活動家の育成 |
歴代指導者
歴代最高指導者
- ウラジーミル・イリイチ・レーニン(1919年-1924年)
ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員・政治局員
- ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(1924年-1943年)
ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会書記長・中央委員・政治局員・組織局員
全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会書記長・中央委員・政治局員・組織局員
共産主義インターナショナル執行委員会議長
- 初代:グリゴリー・エフセーエヴィチ・ジノヴィエフ(1919年-1926年)
ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員・政治局員
全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員・政治局員
- 第2代:ニコライ・イヴァノヴィチ・ブハーリン(1926年-1929年)
全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員・政治局員
- 第3代:ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(1929年-1933年)
全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会第二書記・中央委員・政治局員・組織局員
全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員・政治局員
- 第4代:ゲオルギ・ディミトロフ(1933年-1943年)
ブルガリア共産党中央委員会国外事務局委員
共産主義インターナショナル執行委員会副議長
- ドミトリー・ザハロヴィッチ・マヌイリスキー(1935年-1943年)
ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)中央委員・政治局員
共産主義インターナショナル執行委員会書記長
- ヴァシーリー・ペトロフ・コラロフ(1922年-1924年)
ブルガリア共産党中央委員会書記
- オットー・ヴィレ(ヴィルヘルム)・クーシネン(1924年-1935年)
フィンランド共産党コミンテルン代表
- ゲオルギ・ディミトロフ(1935年-1943年)
ブルガリア共産党中央委員会国外事務局委員
中央組織
共産主義インターナショナルを運営した中央組織。約1500人の職員が構成した。
執行機関
- 共産主義インターナショナル大会
共産主義インターナショナルの最高機関。
各国の共産党の代表によって構成された。
コミンテルン全体を監督する機関である。大会は執行委員会が召集する。
政策の基本方針を決定し、国際共産主義運動の長期戦略の基本方向の決定の他、綱領、規約の採択と改正、指導機関として「主要な諸国の共産党の代表者1名で構成される」執行委員会を始めとした諸機関の委員の選出、当面の主要問題に関する政策についての戦術の決定などを行う。
だが、この最高意思決定というプロセスは極めて形式的なもので、実態は執行委員会幹部会及び書記局が組織全体を牛耳っており、その追認機関に過ぎなかった。
- 共産主義インターナショナル執行委員会(IKKI/ИККИ)
言わずと知れた共産主義インターナショナルの最高指導機関。各国共産党の中央委員会もこの組織に習ったものである。
「主要な諸国の共産党の代表者1名で構成される」機関であるとされ、グリゴリー・ジノヴィエフが初代の議長となった。
「指導的機関、共産主義インターナショナルの政策に関わる重要な問題全てを解決する。
各共産党の最重要な活動に関する然るべき決定を行う。
社会政治闘争、世界の反ファシズム闘争の中心点について、共産主義インターナショナルの指導的機関は、主な具体的問題の全てに関し、各国共産党に命令を与える。」
とされ、コミンテルンの最重要組織と位置付けられた。
各国の共産党は、様々な問題を執行委員会に提出し、コミンテルンは必要に応じて職員を派遣していたのである。
しかしながら、執行委員会総会は、1935年7月25日から8月21日に開催された第7回大会直後の8月21日に一回だけ開かれ、幹部会会員と書記局員を選出して終わっている。
又、執行委員会拡大総会も1933年11月28日から12月12日に開かれた第13回会議を最後に一回も開催されてはいない。
つまり1935年以降の主要な諸問題はコミンテルン内では執行委員会総会では検討されてはいない。元々、執行委員会はさらに執行機関として執行委員会幹部会及び書記局を設置しており、第7回大会以降、重要な問題を執行委員会に代わって検討してきたのは、幹部会と書記局という2つの機関なのである。
- 共産主義インターナショナル執行委員会幹部会
(当初の名前は「共産主義インターナショナル執行委員会小委員会(ビューロー)」。
後に「執行委員会常任幹部会」を経て「執行委員会幹部会」へと改組。)
政治的決定を行う為の政策決定機関 。
執行委員会の総会から総会の間のコミンテルンの組織活動を指導する機関で、コミンテルンの基本政策を決定する、事実上のコミンテルン最高指導部である。
- 共産主義インターナショナル国際統制委員会(IKK)
各国共産党が持ち込んだ問題を裁定し、財政と規律問題を統轄する機関である。
1921年6〜7月のコミンテルン第3回大会において導入される。
その役割は、国際共産主義者の規律を監視すること、特にコミンテルンの公式路線からのどのような逸脱をも防ぐことであった。
- 共産主義インターナショナル内務委員会
コミンテルンの政策決定を担う機関。
実務機関
- 共産主義インターナショナル執行委員会書記局(ビューロー)
共産主義インターナショナルの実務組織のトップに君臨する機関。
1935年10月13日の執行委員会幹部会の決議により、執行委員会書記局は直接書記長の指導下に活動するようになった。
書記局は次のような役割を担っていた。
・コミンテルンの指導諸機関の会議の技術的準備(会議のための資料収集、会議までに資料を適時に発送すること、通訳の組織、その他)
・会議議事録作成と議事録抜粋を適時配布する事
・採択された決定をすべて収集する事
・指導機関により承認された文書の最終的なテキストを適時受け入れ、それらを各党らもしくは然るべき上下の諸機関へ発送する事
・コミンテルン機構内部の指導諸機関の決定を適時チェック、監視する事
・決議実施の進展に関し書記長に報告する事
・コミンテルン機構内の秘密活動の実行を監視する事
等である。
「コミンテルンいちばんのコケティッシュな猫」との異名を持つコミンテルン執行委員会情報部スカンジナビア担当諜報員アイノ・クーシネンは、
「1922年、私が初めてそこ(書記局)を訪れた時に見たものは、どう好意的に見ても、ロシアと外国のお喋りな知識人たちの混然とした集まり以上のものではなかった。」
と辛辣な評価を下している。
- 執行委員会第一部
1942年に創設され、直接書記長に属する第一部は、コミンテルン執行委員会書記局秘密作戦技術連絡部として存在しつつ、コミンテルン執行委員会と各国共産党、在外連絡拠点との非合法無線連絡を指導し、幹部及び技術者の養成に従事した。
その他に、人、物資の海外への非合法移送と、海外に派遣される人物の為の文書を作成し、無線装置を準備し、暗号文書の処方箋(書き方)を準備し、軍事情報収集のための在外拠点の活動を組織し、指導した。
- 国際連絡部(略:OMS/存続:1921-1939)
コミンテルンの最も秘密性の高い部署であった。
非合法連絡部、外国人連絡部とも訳される。
諜報、プロパガンダ、資金の配分等の活動を中心に行い、その他にソ連の参謀本部及び秘密警察(GPU、NKVD、MVD、等)との連携やビザ、公文書類の偽造などが挙げられる。
歴史家トーマス・L・サクマイスターはこう記述している。
「OMSは破壊活動や陰謀活動を調整するコミンテルンの部門であった。
その機能の一部は、ソ連の主要な情報機関であるOGPUとGRUの機能と重複しており、それらの諜報員がコミンテルンに配属されることもあった。
しかし、OMSは独自の活動を続け、海外の各共産党の中央委員会に独自の代表者を置いていた。」
2012年、歴史家のデイヴィッド・マクナイトはこう述べている。
「コミンテルンの陰謀的な仕事の最も激しい実用化は、その国際連絡組織であるOMSによって遂行された。
この組織は、密使活動や地下の政治活動を支援する仕事を引き受けた。
この組織は、金や手紙の輸送、パスポートやその他の偽造文書の作成、地下組織の技術的支援、例えば隠れ家の管理、偽装活動としての海外での事業設立などを行っていた。」
尚、1930年代の粛清でコミンテルン職員が大量に処刑された背景には、この組織と秘密警察との関係の不和があると言う。
- 情報部
新聞、定期刊行物から世界各国の政治経済情報を収集、翻訳配布
- 印刷出版部
外国語の翻訳と通訳の供給を担当し、通信社を通して、マルクス・レーニン主義問題、国際政治、平和運動、社会民主主義、ソ連の社会主義建設、赤軍、ソ連民族政策に関する論文などを発信した。
- 煽動宣伝部
ラジオ放送を通して国際的宣伝を担った機関。
モスクワ放送(イノヴェシャーニエ)によってプロパガンダ放送を行う。
- 人事部(Otdel kadorov)
全職員の政治的信頼度チェックを担う機関。
1932年の書記局の決議により執行委員会組織部人事局と特別部を土台に創設された。
人事部の機能には、コミンテルン幹部の登録・配置、共産党幹部を摘発から守るための措置の作成、ソ連に滞在していた政治亡命者間の政治活動の実行がある。
- 組織部
いわば庶務
外国共産党の監視、専門家の派遣
- 施設業務部
寮、車庫、食堂、ビル管理など、コミンテルンの施設管理を行っていた組織で、1941年8月21日に創設された。この組織はコミンテルンの解散まで機能した。
- 執行委員会文書館(アルヒーフ)
コミンテルン内部の会議の速記録、公文書、機密文書等の文書を管理・保管する。ソ連崩壊後、新設のロシア現代史資料保存・研究センター等に所蔵資料を移管。1999年3月に研究センターが改称されて出来た、ロシア国立社会政治史文書館(ロシア語:Российский государственный архив социально-политической истории/略称:РГАСПИ[ルガスピ])において、その資料は現代にも受け継がれ、保存されている。
各地域支局
【ソ連・北欧】
- ペトログラード書記局
所在地:ペトログラード
- 南部書記局
所在地:キエフ
- スカンディナヴィア委員会書記局
所在地:ストックホルム
【ヨーロッパ】
- 西欧書記局
所在地:ベルリン
欧州革命の中心として絶大な権威を誇った。
- 東南書記局
所在地:ウィーン
後に西欧書記局に統合される。
- バルカン書記局
所在地:ソフィア
- アムステルダム臨時事務局(アムステルダム・サブビューロー[1919-1920年])
所在地:アムステルダム
書記:セバルト・リュトヘルス
極めて重要な補助機関として期待され、コミンテルン執行委員会によるアムステルダム・サブビューローへの資金援助決定額は在外ビューローのうち最高であった。アメリカ地域における活動を支えたことで知られる。
【アメリカ大陸】
- 全米事務局(パン・アメリカ・エージェンシー)
所在地:メキシコシティ
議長:片山潜
ニューヨークの全米臨時事務局及びメキシコの中米書記局の合併により誕生。
- 全米臨時事務局(パン・アメリカ・サブビューロー)
所在地:ニューヨーク
創設者:ニコラス・ハーウィチら数名
- 中米書記局(ラテンアメリカ・ビューロー)
所在地:メキシコシティ
機関誌「共産主義ブレティン」
編集長ディアス・ラミレス
- 南米書記局
所在地:ブエノスアイレス
1929年6月、ブエノスアイレスで開催されたラテンアメリカ諸国共産党第一回会議の中心となったと思われる。
【アジア】
・執行委員会東方部
所在地:モスクワ
主任:М.П.パブロヴィチ→フョードル・ペトロフ(本名:フョードル・ラスコーリニコフ)
コミンテルン第5回大会にて創設された東アジア地域全域の指導を行った統括機関。宣伝部を含む独自組織を持っていた組織で、活動範囲は、近東・中東・極東に分かれていた。
- 極東書記局
所在地:イルクーツク→ハバロフスク・ウラジオストク→上海(東アジア事務局と統合)
初代議長ボリス・シュミャツキー
第二代議長グリゴリー・ヴォイチンスキー(コミンテルン創立期の実力者であり、中国研究家。東アジア事務局創設者。)
第三代議長パーヴェル・ミフ(モスクワ中山大学(正式名称:中国労動者孫逸仙大学)前学長。中国専門家として知られた。)
機関誌『極東諸民族』
・中国委員会(中国共産党の指導機関。)
・日本委員会(日本共産党の指導機関。)
・朝鮮委員会(韓人社会党、後の朝鮮共産党の指導機関。)
・モンゴル委員会(1924〜1932。モンゴル人民党、後のモンゴル人民革命党の指導機関。)
極東書記局は、「中国、日本、朝鮮、チベット及びモンゴルにおけるすべての共産主義事業と革命事業を調整する機関」として、上記の4つの国及び地域を担当する為に設置される。
100名弱の人員と自前の建物や付属の宿舎を有し、自動車や馬車、図書館なども保有していた。
1922年のコミンテルン極東諸民族大会開催の中心となった。
- 東アジア事務局(極東書記局上海支局)
所在地:上海共同租界
創設者ヴィレンスキー・シビリャコフ、グリゴリー・ヴォイチンスキーら数名
議長イワン・スミルノフ(“シベリアのレーニン”と呼ばれた極東ロシアの革命家。シベリア革命委員会議長・ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派シベリア事務局議長。)
ロシア・北欧地域各国支部
〔組織詳細〕
・本部(直轄)/ペトログラード書記局管轄地域
- 共産主義インターナショナル支部・ロシア共産党(ボリシェヴィキ)(ロシア共産党/共産主義インターナショナルロシア支部。ロシア語:Российская коммунистическая партия (большевиков), являющаяся секцией Коммунистического Интернационала、РКП)
『переход всей власти к Советам!(全ての権力をソヴィエトへ!)』
共産主義インターナショナル(コミンテルン)の総本部にして、1917年以降の国際共産主義運動の最高司令部であり総本山。
ロシア・ナロードニキ運動の流れを汲む労働解放団とペトログラードの工場労働者によるマルクス主義サークルのペトログラード社会民主党などが合同して誕生した、労働者解放闘争同盟を源流に持ち、これが発展したロシア社会民主労働党を前身政党として、その分派となったロシア社会民主労働党社会民主労働党(ボリシェヴィキ[多数]派)を直接の母体とする。
マルクス・レーニン主義を掲げる労働者(プロレタリアート)階級前衛党として、長く同国に君臨し続けた世界史上唯一無二の共産主義国家の共産主義政党であり、一党独裁政党であった。
直接の源流となったロシア社会民主労働党が成立したのは、1898年3月13日の事。当時ロシア帝国領であったベラルーシのミンスクで、前述の労働者解放闘争同盟を改組して結成された。そしてこれは、ロシア帝国で最初のマルクス主義政党の誕生でもあった。
しかし、1903年7月30日にベルギーのブリュッセルで開かれ、途中でイギリスのロンドンに渡って継続されたロシア社会民主労働党の第2回大会では、既にボリシェヴィキ及びメンシェヴィキに分裂する予兆となる亀裂が生じており、後に1912年1月5日のプラハ協議会で正式に社会民主労働党(ボリシェヴィキ[多数]派)が成立する事になる。
その後の1917年2月に、ロシア帝国皇帝ニコライ二世が退位したのを期に活動を活発化させたボリシェヴィキは、1917年10月25日、遂にロシア十月革命を引き起こして政権を奪取、ロシア・ソビエト社会主義連邦共和国を成立させる。
1924年に党中央委員兼政治局員で初代最高指導者であったレーニンが死去すると、事務方トップの党書記長であったヨシフ・スターリンが実権を握り、独裁政治を確立。以後30年以上に渡るスターリン時代が始まる。
1925年にはロシアの名を捨てて、全連邦共産党(ボリシェヴィキ)と党名を変更。
更に1933年に第二次世界大戦が勃発すると、西には国家社会主義ドイツ労働者党とヒトラー総統率いるドイツ第三帝国、東には全連邦共産党(ボリシェヴィキ)とスターリン書記長率いるソビエト連邦という、絶対的独裁者の恐怖政治によって支配される一党独裁国家同士による史上最大と称される陸戦、独ソ戦が展開されるという、人類史上類を見ない最悪の状況をこの地上に現出させるに至る。
辛くもナチスに勝利したソ連だったが、その直後からアメリカとの冷戦に突入。
1952年には書記長の座を廃すると共にソビエト連邦共産党に党名を再変更。
以降、ソ連共産党として活動する事になり、スターリンは筆頭書記として党に君臨した。
その一年後にスターリンが没すると、後継の党筆頭書記には、スターリンの最側近にして補佐役であったゲオルギー・マレンコフが就任する。
マレンコフはスターリンの反省点から権力集中を防ぐ目的で、約9日後には自らは閣僚会議議長(首相)に、フルシチョフに党首たる筆頭書記の座を明け渡すも、後に完全失脚。
跡を継いだフルシチョフは、スターリン批判を展開し、やはり集団指導体制を取り入れて、第一書記に就任。
宇宙開発事業などでソビエト経済成長の黄金期を記録する。
フルシチョフの跡を継いだブレジネフは、保守派筆頭のような人物で、一転、第一書記の名をスターリン時代の書記長に戻し、保守的政策を展開する。
ブレジネフ・ドクトリンを掲げて衛星国民主化を弾圧したり、アフガニスタン侵攻を実行に移すなど、強気の外交が目立った。
しかし、一口に保守派と言えど、党内では一転、調整型の政治家であり、国内統制もそこまで厳しいものとはしなかった。そのためブレジネフは今でもロシア人の中で評判が良い事で知られる。
そして、このブレジネフ期にソビエト経済はゆっくりと停滞を始め、アメリカともなんだかんだ対立しながらも共存している関係に落ち着くなど、よくも悪くも、穏健的な長期停滞を象徴する政権であった。
その後の1982年、ブレジネフの死によって彼の18年と言う長きに渡る支配が終了すると、後任の書記長には改革派にしてシロヴィキ(諜報機関「KGB」出身・チェキスト)のユーリ・アンドロポフが就任。この時期に若手改革派筆頭のゴルバチョフを同郷のよしみであり、同じ改革派という事からアンドロポフが党書記に抜擢している。
2年後にアンドロポフが急死すると、既に病気を患って瀕死であった保守派のチェルネンコが書記長に就任する。チェルネンコは宣伝扇動部(アギト・プロップ)で長年働いた宣伝畑の人物である。
こちらも約1年後に急死すると、若手改革派のミハイル・ゴルバチョフが党書記長に就任。
しかし、ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコと、長年の老人支配で硬直したソ連は既に限界を超えており、ゴルバチョフの改革でどうこうできるものでは無くなっていた。
しかし彼は、その再建の為に、翌1986年のソ連共産党第27回党大会でソ連経済の抜本的改革戦略として「社会・経済発展の加速化(ウスカレーニエ/英:escalation)戦略」と呼ばれる経済再建戦略を提示し、これの実現の為に、政策の中心に添えられた目玉政策である「ペレストロイカ(再構築)政策」と称する改革プログラムを施行させ、機械工業の質と効率の向上を目的とする「国家品質管理証明制度(ガスプリヨームカ)」を導入する等改革を開始。
その矢先に発生したチェルノブイリ原発事故を機にソ連官僚機構の隠蔽体質の問題を突き付けられたゴルバチョフは、そこにもメスを入れ、「グラスノスチ(情報公開)政策」も断行。
最終的に加速化(ウスカレーニエ)戦略の下に、①再構築(ペレストロイカ)②情報公開(グラスノスチ)③国家品質管理証明制度(ガスプリヨームカ)の三本柱を基軸とする三位一体の改革を前進させてゆく。
外交では「新思考外交」を掲げて西側との協調を軸とした外交を実施。米ソ冷戦を終結させ、ノーベル平和賞まで受賞するが、彼の改革虚しく、ソ連は解体への道を突き進む。
ゴルバチョフは最後の力を振り絞って、地方分権を強め、ソ連をEU的な国家連合に再編しようと模索、その条約である「新連邦条約」締結を翌日に控えた1991年8月19日、ゲンナジー・ヤナーエフ副大統領やウラジーミル・クリュチコフ国家保安委員会(KGB)議長を始めとする保守派グループは「国家非常事態委員会」を称してクーデター未遂事件を勃発させる。
急進改革派で知られたボリス・エリツィンロシア共和国大統領らの尽力で、クーデターそのものは未遂に終わったものの、これを機に共産党の求心力は急激に低下。
党の維持すら困難な状況になったソ連共産党は1991年8月24日、ゴルバチョフ書記長による書記長職辞任、及び党中央委員会自主解散の勧告を受けてそれを承諾。
書記長辞任後に副書記長ウラジーミル・イワシコが書記長代行として5日間業務を継承し、1991年8月29日、党中央委員会自主解散。地方組織も、1991年11月6日にロシア大統領ボリス・エリツィンによる解散を命じる大統領令の発令を受けて順次解散された。
かに思われたが、直後の1992年、新生ロシア連邦下で、主にソ連共産党構成組織の1つで1990年に新設された保守派の牙城、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国共産党(ロシア語:Коммунистическая партия Российской Советской Федеративной Социалистической Республики/通称:ロシア共産党)の元党員らを中心として、ソ連共産党の元保守派幹部らが集結して
「ロシア共和国共産党再建の為の組織委員会」
が設立されると、ソ連共産党中央委員会イデオロギー部副部長にしてロシア・ソビエト連邦社会主義共和国共産党中央委員会政治局員兼書記でもあった、ソ連共産党宣伝扇動部(アギト・プロップ)元幹部のゲンナジー・ジュガーノフを党中央執行委員長(党首)として、1993年に
「ロシア連邦共産党(Коммунистическая Партия Российской Федерации、КПРФ/カムニスチーチェスカヤ・パールチヤ・ラッシースコイ・フェデラーツィ、カー・ペー・ラー・エフ)」
としてまさかの再建。
即座に地方組織も再建され、ロシア連邦最大の全国政党となる。
しかし支持者は、92年からの経済改革に適応できない元ソビエト共産党の活動家が中心で高齢者が多く、その他、年金生活者や地方の農民が支持者の一部にはいるものの、資本主義社会の下で育ってきた若者の支持はあまり得られていない。
党の基本政策は、複数政党制、市場経済を認める一方で、国有企業の民営化の停止、一部企業の再国有化、計画経済の復活、外国資本による経済支配の排除と外国への譲歩の拒否による国益の保護などである。
純粋なマルクス・レーニン主義と言うよりは、スターリニズムを大元としたナショナリズム的傾向が強い。
現在もロシア連邦議会の野党第一党として、与党の保守最大政党である、統一ロシアと対峙し続けている。
ヨーロッパ地域各国支部
西欧書記局(所在地:ベルリン)管轄地域
- ドイツ共産党・共産主義インターナショナル支部(ドイツ共産党/共産主義インターナショナルドイツ支部。ドイツ語:Deutsche Kommunistische Partei・Sektion der Kommunistischen Internationale、DKP)
『Wer Hindenburg wählt, wählt Hitler. Wer Hitler wählt, wählt den Krieg!(ヒンデンブルクを選ぶ者はヒトラーを選ぶ。ヒトラーを選ぶ者は戦争を選ぶ!)』
コミンテルンではロシア共産党(ボリシェヴィキ)に次ぐ大支部で、コミンテルン支局の中でも最大の規模を誇る西欧書記局を擁するベルリンに本拠地を置く。正に名実共にコミンテルンのNo.2と言っていい共産党である。まず、ドイツは全世界の国際共産主義運動にとって聖地とも言える特別な地である。科学的社会主義の祖であるカール・マルクスが、このドイツの資本主義社会が進みきった時にこそ革命が起きると予言した、正に本来の共産主義革命の出発点となる予定の場所だったからである。だからこそ世界中の共産主義者達はこのドイツでの革命に期待し、レーニンはこのドイツ革命の結実に「命を賭ける」と激を飛ばすほどで、ロシア革命はその(ドイツ革命)為の呼び水に過ぎないとすらしており、「バイエルン(ドイツ)の社会主義革命が成功するか否かで、世界共産主義革命の運命を決めることになる。」、「(ロシア10月革命を呼び水とした)ドイツ革命と、それに続くヨーロッパ革命が無ければ、ロシア革命は『偉大な実験』で終わる。」と述べている(この予言はドイツ革命が失敗に終わった70年後にソ連が崩壊し、実験であった、と評されるなど奇しくも的中している)。そしてドイツ共産党の系譜もやはり共産主義運動の中では名門中の名門で、遡れば、かつて、正義者同盟と共産主義通信委員会を前身として成立した、カール・マルクスによる秘密結社、1847年結成の共産主義者同盟(独: Bund der Kommunisten)の元メンバーであった社会主義者フェルディナント・ラッサールがザクセン王国首都ライプツィヒにおいて1863年5月23日に創設したドイツ初の労働者政党、「全ドイツ労働者協会」、及びカール・マルクスの支持者ヴィルヘルム・リープクネヒトとアウグスト・ベーベルによって、1869年にアイゼナハ大会で創設された社会主義政党である「社会民主労働者党(SDAP)」にまで溯る。この二党は後に1875年のゴータ党大会で合同し、ドイツ社会主義労働者党を結成。これが1890年のハレ党大会で改称したのが「ドイツ社会民主党(SPD)」である(この経緯から今でもドイツ社会民主党の結党日は、全ドイツ労働者協会成立の5月23日ということになっている。)。ドイツ共産党はこの社民党左派が母体となっており、彼らは1914年から1915年にかけて、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルク、クララ・ツェトキンを中心として「国際派(Gruppe Internationale/グルッペ・インターナツィオナーレ)と呼ばれる反対派を形成し、後の1916年頃から国際派の出版した非合法冊子「スパルタクス書簡」に因んで、国際派は「スパルタクス団(スパルタクス・グルッペ/Spartakusgruppe)として知られるようになる。1919年には「ドイツ共産党・スパルタクス団」と改称、ここにドイツ共産党が成立する。彼らはコミンテルン結成の大会からコミンテルンに加入したロシア共産党(後のソ連共産党)と並ぶコミンテルンの古参政党となった。そしてその後には武装蜂起を行うも失敗し、ローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトを失うも活動を継続。その後は、アドルフ・ヒトラー総統率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)と政権を巡って争うも敗北、一時は壊滅状態となる。終戦後に再建され、ソ連占領地域の社会民主党の組織と統合し、ドイツ社会主義統一党を結党。以来ソ連軍占領地域に建国されたドイツ民主共和国(東ドイツ)の一党独裁政党として君臨し、東西統一後は民主社会党と党名を変更、更に現在は左翼党と党名を変更して、ドイツ連邦議会の少数野党として活動している。
- 共産主義インターナショナルフランス支部(フランス共産党/共産主義インターナショナルフランス支部。フランス語:Section française de l'Internationale communiste、SFIC。改称後:フランス共産党/フランス語:Parti communiste français、PCF。)
前身はフランス社会党(正式名称:労働インターナショナル・フランス支部/フランス語:Section Française de l'Internationale Ouvrière、SFIO)左派で、フランス社会党は党書記長フロッサールと、党機関誌『ユマニテ(人道)』編集長カシャンらに率いられた党内親ボリシェヴィキ派が党内の2/3を占めたことで1920年12月のトゥール党大会においてコミンテルンへの加盟を決議し、党名を「共産主義インターナショナルフランス支部(SFIC)」に変更した。右派はこれに反発して後に脱退、労働インターナショナルフランス支部(フランス社会党)として活動を続行した。当初は「モスクワの長女」と称され、ソ連及びコミンテルンの意向に100%付き従う存在として知られたが、第二次世界大戦が始まると、1930年に党書記長に就任したモーリス・トレーズ書記長は、元々の共産党の母体となったフランス社会党に加え、フランス急進党らも含めた複数の左派政党と共に人民戦線と呼ばれる提携関係を樹立、後に祖国フランスを占領したナチス・ドイツの占領軍に対しては、党の地下組織をフル稼働させてゲリラ戦術を展開して徹底抗戦、当初からナチス占領軍将校の射殺を繰り返す激しい戦術を採用し、それに対するナチス占領軍側の弾圧も「疑わしきは処刑」と熾烈を極めた。これによりフランス共産党は一躍「銃殺を恐れぬ党」としてフランス中に勇名を轟かせ、フランス国内に確固たる権威を取り戻す。更にフランス共産党はその勢いに乗って「愛国主義とインターナショナリズムの融合」をレジスタンス運動におけるスローガンに掲げ、ド・ゴール派らブルジョアジーのレジスタンス組織とも協調すると共に、レジスタンスの大衆組織として「国民戦線」を結成し、主に中産階級の取り込みを図った。1944年にナチスを放逐した国民的なレジスタンス運動は、共産党の権威の高まりとあいまって「ブルジョアジーすら社会主義を希求する」と言われたような状況を現出させ、トレーズ書記長も率先垂範してレジスタンスの武装解除を命じ、資本主義体制再建に協力、フランス共和国臨時政府のド・ゴール政権では、トレーズが副首相として入閣した事で、その権威は更に高まった。その為、これら第二次世界大戦を通しての徹底的なフランスへの献身と忠誠の結果として、フランス共産党は、“共産党にもかかわらず”「愛国の党」として知られるようになり、これはフランス共産党にとって大いなるアイデンティティとして確立される事になり、世界広しと言えども極めて稀な「愛国共産党」としての地位を得る事になる。近年ではシラク大統領政権下の1997年、ジョスパン社会党第一書記率いる内閣に参画した事もある、西側諸国有数の共産党である。後のベトナム労働党主席(北ベトナム、つまり現在のベトナムとその独裁政党であるベトナム共産党の前身の労働党における初代最高指導者)である若き日のホー・チ・ミンや、後の中華人民共和国初代政務院(後に改称して国務院)総理(=初代首相)兼中央人民政府外交部長(=外務大臣)となった中国共産党の最高幹部となる若き日の周恩来ら後年の共産主義陣営の大物達や、パブロ・ピカソやエリック・サティ、イヴ・モンタン、シモーヌ・シニョレら芸術家や俳優らも参加した事がある。
- グレート・ブリテン共産党・共産主義インターナショナルイギリス支部(Communist Party of Great Britain - the British section of the Communist International)
1920年に結党される。思想上コミンテルンの影響を受け、イギリス国内における共産主義活動を行ってきた。
議会下院の庶民院では1922年イギリス総選挙と1924年イギリス総選挙、1935年イギリス総選挙で1議席を得た。しかし、保守党から労働党へと政権交代が実現した1945年イギリス総選挙で2議席を獲得し、最も支持が拡大したのを最後に以後の国政選挙では当選者を出せず、徐々に党勢は低迷していった。党内の路線対立によってレーニン主義派のグレートブリテン共産党(暫定中央委員会)や親ソ連(≒ペレストロイカ・ゴルバチョフ・ユーロコミュニズム)派の英国共産党が分裂したこともあり、1991年にテンプル書記長のもとでマルクス=レーニン主義綱領を放棄して民主左翼党と改称し解散。事実上の後継政党であるイギリス共産党は現在も活動中である。
- イタリア共産党・共産主義インターナショナルイタリア支部(イタリア共産党/共産主義インターナショナルイタリア支部。イタリア語:Partito Comunista d'Italia - Sezione Italiana dell'Internazionale Comunista、PCI)
本部をローマ(ラツィオ州)に置き、トスカーナ州、エミリア=ロマーニャ州、ウンブリア州といった中部イタリアを基盤とし、戦後の1970年代には、約170万人の党員を抱え、1976年の選挙で34.4%の得票率を記録する、西側諸国における共産党としては最大の勢力を有していた「ユーロ・コミュニズム」路線を推進した、代表的な共産党。前身は1892年結党のイタリア社会党(PSI)で、社会党左派を母体とする。1921年、左派の派閥である「共産主義派(新秩序グループ)」は社会党を離れ、アマデーオ・ボルディーガの呼びかけにより、共産主義インターナショナルイタリア支部を結成する。しかし翌年1922年にベニート・ムッソリーニ率いる国家ファシスト党政権が誕生すると、即座に弾圧され多くの幹部を失う。弾圧の最中、党の指揮を執ったイタリア共産党初期の最大の理論家にして、「共産主義は民主主義のプロセスで実現するべき」という、後述のユーロ・コミュニズムと呼ばれる政治思想の基礎を作ったことで知られる、初代書記長アントニオ・グラムシもまた、投獄された後に命を落とす。その後はグラムシの友人のパルミーロ・トリアッティが書記長の座を継ぎ、第二次世界大戦の終わる直前にはイタリア北部を中心としたパルチザン(『ガリバルディ旅団』や『愛国行動部隊』など)の指導部となり、抵抗運動の主役として活躍した。戦後は王国政府と妥協して政権に参画し、入閣まで果たす。更に1946年には党員が230万人に達したとして、ギネスブックの「最大の共産党」の項目で共産圏以外で最大の共産党と認定され、西側諸国の共産党では異例の高い支持率を誇った。その後の1973年10月には、貴族階級出身のエンリコ・ベルリンゲル書記長の主導により、党綱領から「マルクス・レーニン主義」や「プロレタリア独裁」、「暴力的革命の達成」を放棄する独自の穏健化路線を推進。「ユーロコミュニズム」と呼ばれたこれらの施策は成功を収め、キリスト教民主主義との協力路線を打ち出し、「歴史的妥協」政策による連立政権の樹立を図って閣外協力を行うなどした。その結果、1975年に行われた議会選においては得票率が30パーセント台に伸び、首都のローマやボローニャ、フィレンツェをはじめとする地方自治体の長を数多く輩出し、世界各国から多くの注目を浴びた。その後1991年には左翼民主党へ改称し、1998年には左翼民主主義者へ、そして、左翼民主主義者が加入していた中道左派選挙連合である「オリーブの木」やそれを発展させた中道左派の政党連合「ルニオーネ(団結)」を更に発展・解消する形で「民主党」を結党し、イタリア共産党から続いた左翼民主主義者の組織は、その中核・母体として機能した。
東南書記局(所在地:ウィーン)管轄地域
- オーストリア共産党・共産主義インターナショナル支部(オーストリア共産党/共産主義インターナショナルオーストリア支部。オーストリア語:Kommunistischen Partei Österreichs・Sektion der Kommunistischen Internationale、KPÖ)
1918年結成。1933年、ドルフース政権下で非合法化された。この措置はオーストリアがナチス・ドイツに併合された後も続いた。
第二次世界大戦後、カール・レンナー率いる暫定政権に加わった。
しかしソ連によって分割占領された地区があったにもかかわらず、共産党は勢力を伸ばすことができなかった。
その後、ソ連軍が撤退し、オーストリアは西側寄りながら永世中立国となると、共産党はますます勢力を落としていった。
特に隣国で起きたハンガリー動乱やプラハの春は共産党を支持する有権者に大きな動揺を与えた。
そのためユーロコミュニズム路線を採用したりしたが、党勢の衰退には歯止めがかからず、国民議会(下院)や州議会の議席も次々と失った。
東欧革命と冷戦の終結はこの傾向にますます拍車をかけた。
現在も国政レベルでは議席を有していない
- 共産主義インターナショナルハンガリー支部(ハンガリー共産党/共産主義インターナショナルハンガリー支部。ハンガリー語:Kommunista Internacionálé Magyar Szekciója/Kommunisták Magyarországi Pártja、KMP)
クン・ベーラの指導の下、1919年3月にはハンガリー革命でハンガリー民主共和国を倒し、ハンガリー・ソビエト共和国を設立した。
しかし、共産党政権は介入してきたルーマニア王国軍とホルティ・ミクローシュ率いるハンガリー国民軍に倒され、地下に潜伏した。
その後成立したハンガリー王国においては、共産党は非合法とされていた。
しかし、1944年にハンガリーがナチス・ドイツ軍に占領され、極右の矢十字党が政権を握ると、他の野党と協力した。
1944年5月には、野党や労働組合などとともに「ハンガリー戦線」を結成し、ハンガリーの自由を求める運動を始めた。
そして同年末には、独立小農業者党、ハンガリー社会民主党、民族農民党と連立して、ダールノキ・ミクローシュ・ベーラを首相とするハンガリー臨時国民政府を樹立した。
戦後、ソ連軍の占領統治下でラーコシの指導の下で徐々に権力を握った。1948年、党は社会民主党を吸収してハンガリー勤労者党(後にハンガリー社会主義労働者党/Magyar Szocialista Munkáspárt、略:MSZMP)となり、一党独裁体制を築いた。
1989年には6月の中央委員会で複数政党制の導入を決定して一党独裁を放棄し、10月の党大会では「党の国家政党としての歴史は終わった」と宣言して「ハンガリー社会党」へ改名、1990年以降は欧州統合を推進する社会民主主義政党となった。
1994年、2002年、2006年の3度に渡り選挙に勝利し、連立によって与党となったこともある。
- チェコスロバキア共産党・共産主義インターナショナル支部(チェコスロバキア共産党/共産主義インターナショナルチェコスロバキア支部。チェコ語:Komunistické strany Československa・Sekce Komunistické internacionály、KSČ)
1921年5月16日、チェコスロバキア社会民主党から左派グループが離脱して、チェコスロバキア共産党を結成。
第一次大戦後の独立国としては珍しく議会制民主主義が安定していたチェコスロバキアでは、共産党は野党として議会に参加しており、各種選挙で10%前後の得票率を獲得する、ソビエト連邦を除くヨーロッパ諸国で最高の支持を集める共産党の一つだった。
ナチス・ドイツによってチェコスロバキア併合が開始され、国家がドイツ保護領のボヘミア・モラビア保護領(チェコ地域)とスロバキア共和国に解体されると、共産党は直ちに非合法化された。
これに対し共産党は対独地下抵抗運動を開始。
マサリク初代大統領の時代の外務大臣にして第2代大統領であったエドヴァルド・ベネシュがロンドンで発足させた亡命政府に協力し、ナチス降伏の後に、戦後は彼らと連立政権を発足させる。
後に非共産党勢力が共産党に抗議して閣僚を辞すると、それを逆手に取って全権を掌握(2月の勝利)。
その後、1953年にノボトニーが第一書記に就任すると、対ソ協調路線を打ち出し、1956年のスターリン批判以後も一貫して存続した。
しかし、親ソ路線が破綻をきたすと、1968年の党中央委員会総会はノボトニーを更迭し、改革派のドプチェクを第一書記に選出した。
新指導部は党行動綱領の発表を行い、非スターリン化政策を推し進め、チェコスロバキアは一時期、東欧社会主義圏で最も自由が確保された国家となった(プラハの春)。
しかし、社会主義国の盟主ソ連はこれを反社会主義的であると非難。ブレジネフ・ドクトリンを掲げて同年8月ワルシャワ条約軍をプラハへ侵攻させ、ドプチェク路線を弾圧した(チェコ事件)。
その後は親ソ派政権へと戻るが、1989年の一連の東欧革命の中で、ベルリンの壁崩壊により鉄のカーテンの一角が崩れた事によって国民の民主化要求は一気に表面化した。
劇作家の民主運動家バーツラフ・ハヴェルを代表として反体制勢力が結集した市民フォーラムは民衆の支持を格闘し、デモを組織。
この民主化デモには共産党員も参加し、さらにドゥプチェクなどプラハの春当時の改革派指導者も加わった。
遂に政府は民主化勢力との妥協を決断。
アダメッツ首相は民主化の実施を発表し、選挙を通じた非共産政権への平穏な政権移譲を果たされた(ビロード革命)。
90年にはスロバキア側で共産党内の主流派が社会民主主義を目指す民主左翼党(KSS-SDĽ)と呼ばれる党内グループが発足。
1991年には党名を「チェコ・モラビア共産党=民主左翼党連合」へと党名を変更するも、その後1993年のビロード離婚を機にチェコ共和国のボヘミア・モラビア共産党(Komunistická strana Čech a Moravy/KSČM)とスロバキア共和国のスロバキア共産党(Komunistická strana Slovenska/KSS)に分党。
スロバキア共産党も主流派の党内グループ、民主左翼党(KSS-SDĽ)が脱退し、正式に政党として民主左翼党(Strana Demokratickej L'avince/SDL)を結成するに至る。
ボヘミア・モラビア共産党は現在でもチェコ共和国の主要野党として活動している。スロバキア共産党は近年では国政において議席を有してはいない。民主左翼党(SDL)は、現在スロバキア共和国の主要左派政党である。
アジア地域各国支部
・執行委員会東方部(所在地:モスクワ)
東アジア地域全域の指導を行った統括機関で、活動範囲は、近東・中東・極東に分かれていた。
極東書記局[及び 東アジア事務局](所在地:イルクーツク・上海)管轄地域
- 国際共産党日本支部日本共産党(日本共産党/共産主義インターナショナル日本支部。旧字体:國際共產黨日本支部日本共產黨[国際共産党日本支部日本共産党]として結党。現在の正式名称は「日本共産党」。)
『確かな野党、日本共産党。』
共産主義インターナショナル執行委員会初代議長グレゴリー・ジノヴィエフが極東地域の共産主義者達がコミンテルンの指導の元に集まった極東諸民族大会の開会宣言で
「日本の革命無しには、極東におけるいかなる革命も比較的重要でない地方的な事件に過ぎない」
「日本における革命の勝利の後でのみ、極東の革命は、コップの中の嵐ではなくなるのだ」
と述べるなど、コミンテルンのアジア戦略は極東アジア諸国地域における唯一の先進資本主義国である日本の革命こそが全極東の民族的階級的解放の前提条件であるとされており、アジア地域の中で最もコミンテルンに重要視された支部である。
前身は、大正10年(1921年)4月、堺利彦・山川均・近藤栄蔵・橋浦時雄・渡辺満三・高津正道らによって結成された「コミンテルン日本支部準備会(日本共産党準備会)」。
1922年(大正11年)7月15日、東京府豊多摩郡渋谷町(現在の渋谷区恵比寿)の高瀬清の下宿にて、堺利彦・山川均・近藤栄蔵・吉川守圀・橋浦時雄・浦田武雄・渡辺満三・高瀬清の8名が会合をもち、非合法(治安警察法違反)に日本共産党を結成した(第一次共産党)。
初代委員長は堺利彦。執行部として中央委員会を設置し、委員長兼国際幹事の堺利彦の他、総務主席幹事荒畑寒村・副総務幹事山川均・副総務幹事高津正道・橋浦時雄・近藤栄蔵・徳田球一の7名を中央委員に選出した。
現在の日本共産党はこの会合を創立大会(第1回党大会)とし、この日付を創立記念日としている。
尚、当時の党員数は100名余と言われ、堺利彦のマルクス・レーニン(M.L.)会、山川均の水曜会(田所輝明・西雅雄・上田茂樹・高橋貞樹ら、1921年活動)、暁民会(早大の高津正道・高瀬清が1920年結成)などのマルクス主義サークルのメンバーが集まっており、特に水曜会が中心であったとされる。
その後、戦前、戦時中と政府によって弾圧され、途中コミンテルンの解散によって完全に自立した道を歩む。
終戦後に合法化されると、戦後第1回の衆議院選挙で国政に進出。
1946年に、当時の中華民国からソ連を経由して、穏健派の共産党幹部である野坂参三が帰国。
野坂は戦前から一貫して天皇制に融和的であり、天皇制打倒を掲げた党の方針とは異なる立場を表明することが多かった人物であり、同年1月26日に日比谷公園で行われた帰国集会では、日本社会党委員長片山哲の登壇、旧大隈立憲改進党や立憲民政党の前身、憲政会の主要人物であった尾崎行雄のメッセージ等、他党派からも一目置かれた人物であった。
彼は、戦後の共産党の方針として、
「人民から愛される党であり、 共産党と聞いて逃げ出すような印象を与えてはならない。」
として、
「愛される共産党」
というキャッチフレーズを制定。
信仰対象としての皇室を容認した、中央委員会との共同声明を発表した。
更に日本共産党は、1955年に、戦前からの「武装闘争路線」を最終的かつ完全に放棄する事を明言し、志賀義雄・宮本顕治らが主導権を握って自由と民主主義を擁護する「自主独立路線」への方針へシフトし、野坂参三が党首たる第一書記に就任した。
1961年の党大会で野坂参三議長・宮本顕治書記長体制が成立した。
その結果、1960〜70年代は大いに勢力を伸ばすことに成功し、宮本顕治委員長・不破哲三書記局長体制移行後の1972年の総選挙では38議席を獲得して、議会第3党・野党第2党に躍進する事に成功して、遂に1979年の総選挙では41議席を獲得しピークを迎えた。
そして1982年からは宮本が中央委員会議長として第一線を退き、理論家として著名な不破哲三が幹部会委員長に就任する。
その後は長く低迷の時代を迎えるも、依然その底力は衰えてはおらず、イタリア共産党の消滅後はフランス共産党を凌ぐ西側諸国最大の共産党にして、主要国家最大の野党共産党となる。
1990年からは、若手のホープとして知られた志位和夫が書記局長に就任。
不破哲三委員長・志位和夫書記局長体制に移行する。
21世紀に入ってからは、2000年に志位和夫が正式に幹部会委員長に就任。
表現規制に反対であったこと、2010年代には合併・連立・内紛・分裂を繰り返し右往左往する諸政党の中、ここでも頑固にぶれない姿勢を貫いてきた共産党の評価がにわかに上がり、党勢を回復していった。
2016年からは志位和夫幹部会委員長・小池晃書記局長体制となり、現在の執行部は2020年より、志位和夫幹部会委員長・山下芳生筆頭副委員長・小池晃書記局長・田村智子政策委員長の四名による体制となっている。
現在も国会において主要野党として活動中。
…共産主義インターナショナル日本支部日本共産党台湾民族支部
(台湾共産党/正式名称:國際共產黨日本支部日本共產黨臺灣民族支部)
1928年4月、上海にて結成。
(中国共産党/共産主義インターナショナル中国支部。繁体字中国語:共產國際中國支部中國共產黨[共産国際中国支部中国共産党]として結党。現在の正式名称は「中国共产党(中国共産党)」。略して「中共」。)
『為人民服務!(人民に奉仕する!)』
前身は、孫文率いる中国国民党によって建国された中華民国統治下の上海共同租界において、1920年8月、北京大学文科長陳独秀を筆頭に、李漢俊、李達、陳望道、俞秀松などが集まって結成したとされるマルクス主義研究サークル「マルクス主義研究会」。
約1年後の1921年7月23日には、共産主義インターナショナル(コミンテルン)極東書記局の主導により、陳独秀の他に北京大学図書館長の李大釗、元北京大学図書館司書の毛沢東らが各地で結成していた共産主義組織を、前述のマルクス主義研究会が糾合する形で、日本の東京帝国大学(現在の東京大学)への留学から帰国した李漢俊の上海の自宅にて、各地の代表第1次全国代表大会(別名:第1回党大会/中共1全会議/1全大会)を開催し、共産主義インターナショナル中国支部・中国共産党を結成。
この会議には、各省の代表者13名、コミンテルン代表の2名が出席したとされ、メンバーは以下の通り。
出身地 | 人名等 |
---|---|
上海代表 | 李漢俊(東京帝国大学出身)、李達(東京帝国大学出身) |
広州代表 | 陳公博、包恵僧 |
北京代表 | 張国燾、劉仁静 |
武漢代表 | 陳潭秋、董必武(日本大学出身) |
長沙代表 | 毛沢東、何叔衡 |
済南代表 | 鄧恩銘、王尽美 |
日本留学生代表 | 周仏海(京都帝国大学出身) |
コミンテルン代表 | ヘンドリクス・マーリン(本名:スネーフリート/オランダ人・顧問)、ウラジーミル・ニコリスキー(本名:ネイマン/ロシア人) |
そして陳独秀を初代最高指導者として中央局書記(1921年-1922年)に任命する事になる。
なお、この会議の参加者で中華人民共和国建国後も名誉を保ったのは、後の国家主席となる毛沢東、及び副主席となる董必武の2人のみであるとされる。
その後、最高指導部を中央局から中央執行委員会に改名し、中央執行委員会委員長にはやはり陳独秀が就任(1922年-1925年)。
この間に、コミンテルン派遣顧問のヘンドリクス・マーリン(本名:スネーフリート/オランダ人)の指導に基づき、中華民国北洋政府(袁世凱派軍閥)に対する共同戦線として、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示した上で、孫文率いる中国国民党と第一次国共合作を締結する。
この後、中国共産党は最高指導機関として中央執行委員会を更に改称し、ここに中国共産党中央委員会の設立と、最高指導者(党首)として、中央委員会総書記の名が歴史上初めて出現する。
初代中央委員会総書記には陳独秀が就任(1925年-1927年)するも、後に国民党の実権を握った反共主義者の蒋介石が北伐を開始、同年に南京国民政府が成立すると、国民党は国民革命軍を動員して上海クーデターを弾圧し、国共合作は事実上崩壊。中国共産党は対時局宣言を発し第一次国共合作の終了を宣言、国共内戦に突入した。
これ以降、中国共産党は長い長征期間へ突入する。
陳独秀は、その失敗からトロツキストのレッテルを貼られて失脚し、その代行を瞿秋白が臨時中央政治局常務委員として務めた(1927年8月7日-1928年6月)後に、向忠発が中央委員会総書記に就任(1928年-1931年)。
向忠発政権では、1928年11月から1930年6月にかけて周恩来が、1930年6月から1930年9月までは李立三が中央政治局常務委員会中央秘書長(≒事務長)として彼を支え、1930年9月から1931年1月までは瞿秋白が中央政治局常務委員会委員の筆頭として向忠発を支えた。
特に李立三は、赤色労働組合インターナショナル(プロフィンテルン)と連絡を取っていた事もあって、事実上、向忠発政権の実権を握っていたと言って良い。
その後、李立三コースを批判したソ連留学組筆頭と目された王明が中央委員会総書記代行(1931年6月-1931年9月15日)となり実権を把握。
都市工作重点主義をとり、1935年の遵義会議まで極左路線を指導する。
1931年末に、王明がモスクワへ一時赴く事が決定すると、“中共中央の若造”と呼ばれた弱冠24歳の博古が、王明の推薦もあって正式に党総書記に就任する。
彼もまた、ソ連留学組であった。
モヤシのように身長が細長く、近眼であった博古ではあるが、演説する際には会場の隅々にまで透る声と大袈裟なゼスチャーで聞く人たちの気持ちを引きつける能力に長けていた煽動家でもあった。
1931年、勢力を落とした中国共産党は、全中国の共産主義勢力を江西省瑞金に結集し、「中華ソビエト共和国臨時政府」を創設。
博古は、1935年まで指導者であり続けたが、政府である人民委員会主席には、当初政治局委員の毛沢東が、後の1934年に張聞天が就任する。
1935年、貴州省遵義県(現:遵義市)において、中央政治局拡大会議、通称、遵義会議が開かれ、張聞天が党総書記に就任する(1935年1月15日-1943年3月20日)。
この時、毛沢東は中央政治局常務委員に選出され、軍事指導権を確立する(1935年1月15日-1943年3月20日)。
1936年秋には陝西省延安に根拠地を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示し、消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。
同年12月7日に朱徳に代わって毛沢東が中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会(共産党の軍隊、紅軍の指導機関)の主席に就任して正式に軍権を完全掌握。
5日後の12月12日に西安で起きた張学良・楊虎城らによる蔣介石監禁事件(西安事件)で、コミンテルンの仲介により宿敵である蔣介石と手を結び、1937年の盧溝橋事件に端を発した大日本帝国陸軍の地方軍、関東軍との日中戦争に対応する為に、第二次国共合作を構築。
翌年、中華ソビエト共和国は「中華民国陝甘寧辺区政府」に、紅軍は「国民革命軍第八路軍(八路軍)」に改組された。
中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会も中国共産党中央革命軍事委員会(現在の中国共産党中央軍事委員会)に改組され、毛沢東は改めてその主席に就任した。
遵義会議以降、党の実権を掌握していった毛沢東だったが、1942年からの整風運動(延安整風)によって党内の反毛沢東派を粛清していき、党内の支配権を確実なものとした。
1943年にはソ連留学組だった総書記の張聞天を排除し、同年3月20日、中央政治局主席兼中央書記処主席(事実上の党首)に就任して党の最終決定権を獲得した。
1945年、第7回党大会で毛沢東思想が党規約に指導理念として加えられ、6月19日の第7期第1回中央委員会全体会議(1中全会)において、毛沢東は党の最高職である中央委員会主席に就任した。
第二次世界大戦終結後、国民党と共産党の対立はもはや避けられないものとなり、毛沢東と蒋介石は、最後の決戦となる第二次国共内戦を開始。
1949年10月1日、遂に北京を奪取した毛沢東は、天安門の壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言する。
…等。(鋭意更新中!)