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明仁の編集履歴

2012-07-02 02:25:16 バージョン

明仁

あきひと

2012年現在における日本の国家元首にあたる天皇。元号は「平成」

2012年(平成24年)現在の日本における天皇であり、国家元首にあたる(日本国憲法では象徴とも)。称号は「継宮」


経歴

1933年(昭和8年)12月23日に昭和天皇の第5子長男として誕生(上四人はいずれも女)。常陸宮正仁親王は弟。


1940年(昭和15年)学習院初等科に入学、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)には栃木県に疎開している。戦後にはアメリカ人エリザベス・ヴァイニングの教育を受ける。1952年(昭和27年)には立太子の礼が行われ皇太子となる。


1957年(昭和32年)には軽井沢のテニスコートで皇后となる正田美智子と出会い恋に落ちる(「テニスコートの恋」)が、彼女が皇族でなく平民であった事から香淳皇后などを始めとして皇室内外の猛反発を受けるが、最終的に1959年(昭和34年)に結婚、世に「ミッチーブーム」を巻き起こした。翌1960年(昭和35年)、初子となる浩宮徳仁親王(現・皇太子)誕生、1963年(昭和38年)には第二子が流産となる不幸もあったが、1965年(昭和40年)礼宮文仁親王、1969年(昭和44年)紀宮清子内親王が誕生しており、子供は計三人となった。


1975年(昭和50年)には沖縄県を初訪問するが、ひめゆりの塔で過激派から火炎瓶を投げつけられる事件が起きているが怪我はなかった。翌年にも訪問。年を置いて、1987年(昭和62年)にも訪問しているが、これは昭和天皇が訪問予定であったが病気の為であり、歴代天皇が沖縄を訪問したのは即位後の1993年が初となる。


1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇が崩御。同日55歳で即位、元号は「平成」となる。翌年即位の礼が執り行われる。象徴天皇制としては初めて即位が行われた天皇となった。


即位後は国民との間を開いた皇室を目指しており、特別扱いを嫌うことでも知られる。一方で憲法上で何かと活動に制約が多い中、皇位継承問題など政治的に突っ込んだ発言もするなど、物議を醸す事も少なくない。


2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災では異例とも言えるビデオメッセージを発信している(東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば)。


2002年(平成14年)には前立腺癌であることを公表。2011年(平成23年)にも入院、2012年(平成24年)には冠動脈のバイパス手術を行っている。同年、歴代天皇としては初めて死後の自分の葬儀、埋葬について遺言を公表している。


人物像

人柄

学習院高等科時代には銀座を学友と共に散策、警備の者を連れていかずに行った為、事態が発覚して騒動となっている。


スポーツ

テニスを好んでプレーしており、皇后との出会いもテニスであった。皇太子と組んで、アメリカ(パパ)ブッシュ大統領・米国日本大使ペアで試合を行なったこともあり、二戦二勝している。


魚類学者として

魚類学者としても著名であり、近年もニジマス研究でさかなくんがクニマスを再発見した事を喜ぶ会見を行なっている。


乗り物

自ら車を運転することもあり、日産プリンスの名前は運転していた車にちなんでいる。


特別扱いを嫌う事もあり、お召し列車の運転も外国からの賓客と同席した場合のみ運転され、鉄道利用の際はグリーン車を利用し、特別車の存在しない鉄道では普通車にも乗車した事がある。


外遊

元々大正以前の歴代天皇に外国を訪問することはなく(明治以前は皇居から出ること自体が稀で、戦後の昭和天皇が日本各地を巡幸したのも天皇としては初めてのケースとなる)、昭和天皇が高齢であったこともあるが、初めて活発に外遊につとめており、アメリカやイギリス、中国など多数の国を訪問してい

る。


なお外遊は皇太子時代からさかんに行われており、このため学習院での単位が足りなくなりそうになる事態を起こしている。


関連タグ

天皇 今上天皇 昭和天皇

平成

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