新編第二駆逐隊
しんぺんだいにくちくたい
概要
夕雲型の中でも、早霜・秋霜・清霜および朝霜の集合絵に付けられるタグ。
秋霜の図鑑説明「先輩方の二駆を継ぐ、夕雲型で編成された新編二駆を…」に由来する独自用語の色合いが強く、実際には単に「第二駆逐隊」と呼ばれることがほとんどである。
そもそも史実では、先代の半壊による解隊でできた空番を埋める形で誕生した駆逐隊であり、本代とて全艦が同時に在籍していた時は無いという決して輝かしい存在ではなかった。
そのため単なる擬人化に留まらず、「あったかもしれない平和裏の襲名」という架空戦記の側面も強く併せ持つグループであると言える。
史実における時系列は以下の通り
- 1943年(昭和18年)7月1日:4代目第二駆逐隊、解隊。
- 1944年(昭和18年)8月15日:早霜・秋霜・清霜の3隻で5代目第二駆逐隊、編成。
- 1944年(昭和18年)10月24日:レイテ沖海戦で早霜が座礁・放棄。
- 1944年(昭和18年)11月13日:マニラ湾空襲で秋霜が大破着底(後に放棄)。
- 1944年(昭和18年)11月15日:第三一駆逐隊から朝霜が転入。
- 1944年(昭和18年)12月26日:礼号作戦で清霜が戦没。
- 1945年(昭和18年)2月10日:第二一駆逐隊に朝霜が転出。5代目第二駆逐隊、解隊。
朝霜も1945年4月の天一号作戦にて戦没しており、在籍艦は全て喪われている。
ただし、秋霜の船体は他の被災艦艇と共に現地に長期間残存した後、1955年に解体処分されたことが明らかになっている。
早霜についても航空写真にてフィリピン・セミララ島の浅瀬にそれらしき残骸の存在が確認されたものの、こちらは現地の治安が不安定なこともあり断定には至っていない。
余談
2023年10月現在、本駆逐隊スタメンの末妹の清霜に「清霜改二」及び「清霜改二丁」、編入艦の朝霜に「朝霜改二」が実装されている。この2名は「礼号組」として扱われることも多い。(旗艦「霞」(朝潮型)にも改二・改二乙が実装済み。)
同時に時報も追加されたが、この内容は「礼号組(=第二駆逐隊所属時代)」がベースとなったものである。ただし、編成時に出すのは転出先の「第二一駆逐隊」の名となっている。
そもそも朝霜が31駆解散間際に2駆へ編入したのは、32駆での涼波早没に伴い浜波が32駆に追加編入されたこと、2駆の他の艦に比べて朝霜が早くに戦力化できたためで、31駆自体は舞鶴鎮守府籍の駆逐艦で編成されていたので横須賀鎮守府籍の朝霜が31駆に加えられていたこと自体が戦中の臨時措置と考えることができる。実際、1944年11月15日の艦隊再編で浜波が32駆から31駆へ、朝霜が31駆から2駆へ移動となったのは当初の配備計画に基づく措置と言えなくもない。涼波が早没していなければ、霜四隻編成の新編二駆が結成されていたかもしれない。