概要
袁世凱政権崩壊後の中国は、さまざまな軍事勢力が割拠する、いわゆる軍閥割拠の状態であった。この状況を打開し、孫文の三民主義に基づいて中国全土を統一する事を目的として、1925年に中国国民党によって建軍された。ソビエト連邦コミンテルンの援助で組織され、1926年7月1日北伐を開始(第1次北伐)。北京政府や各地軍閥を圧倒し、翌1927年には南京、上海を占領。その後一時期、党内の中国共産党員の粛清(上海クーデター)など中国国民党内の混乱によって停滞したが、蒋介石が事態の収拾に成功し権力を掌握すると、1928年4月8日に北伐を再開(第2次北伐)。同年張学良が12月29日に降伏したこと(易幟)をもって、北伐は完了し一応の全国統一を果たした。
1938年からの日中戦争では日本軍と、さらに国共内戦では中国人民解放軍との主な会戦を戦った。日中戦争期には指揮は別ながら中国共産党の軍隊は名目上は国民革命軍に編入されていたが、その戦争直後に中国人民解放軍を組織するため分離された。1947年の中華民国憲法の発布と中国国民党支配の終焉により、国民革命軍は中華民国国軍と名称を変更。
1949年、人民解放軍に敗北すると、国民政府とともにに台湾へ逃れ、台湾軍として現在に至っている。
組織
国民革命軍は、北伐時に結成された陸軍の他に、日中戦争時は各軍閥から再編成した海軍・空軍も保有していた。
陸軍
その存続した期間を通して、370個の標準師団 (正式師)、46個の新師団(新編師)、12個の騎兵師団(騎兵師)、8個の新騎兵師団(新編騎兵師)、66個の臨時師団(暫編師)、及び13個の予備師団(預備師)からなる総数515個もの師団を保有していた。また「200師団」というソ連式の本格的な戦車師団も保有していたが、日本軍にフルボッコにされ消滅した。
大戦前半では主にドイツ式・ソ連式訓練を受け、後半ではアメリカやイギリスから軍事援助を受けた。ただしこれらのことは中心となる8個の師団に限られ、残りの旧軍閥から編入された部隊は概して訓練もされていなかった。(ついでに言っておくと、この8個の師団はいずれも連合軍側の指揮下に置かれており、蒋介石は殆ど介入出来なかった。)この為、西洋の軍事批評家の多くは、国民革命軍は全体として20世紀の軍隊というより19世紀を思い出させるものであるとの印象を持っていたという。無論これらの点から士気の低さは言うまでもなく、暴行や略奪など半ば盗賊のような行為を行ったり、共産党側に投降した将兵も多かった。
海軍
軍閥時代の1913年設立。開戦当初は艦船58隻(うち戦艦1隻)を保有していたが、日本軍航空隊の攻撃でほぼ壊滅。以降は経費も大幅に削減され、僅かに残された砲艦で河川や湖に機雷を敷設し、日本軍が兵員や補給物資を中国奥地まで運ぶのを阻止するだけだった。
終戦後、中華民国は日本より駆逐艦「雪風」を始めとする数十隻の艦船を接収、またアメリカから揚陸艦20隻余り、護衛艦数隻の譲渡をうけ海軍の再建を果たした。しかし国共内戦が勃発し海軍の一部が長江から撤退すると、大量の海軍軍人が国民政府と袂を分かち中国共産党へ投降した(第二艦隊叛乱事件)。1950年の国民政府台湾撤退後、海軍艦隊は不利な状況下で舟山群島、海南島から撤退を行い、以後台湾防衛に集中する。
空軍
1929年設立。日中戦争(支那事変)では、SBやI-15・I-16などのソ連機やB-10やP-26などのアメリカ合衆国製の機体に加え、レンドリース法成立後にアメリカから供与されたP-40など様々な機体で日本陸海軍に挑み、空軍第四大隊長の「空軍戦魂」「東北飛鷹」高志航大佐(撃墜数5)をリーダーとして、「空の趙雲子龍」劉粋剛大尉(撃墜数13)を始め、公式上のトップエース柳哲生中尉(撃墜数11)、後に劉少奇の妻となる王光美の兄・王光復中尉(撃墜数8)、岳飛の末裔楽以琴大尉(撃墜数6)、中国空軍で最初のP-40エース周志開大尉(撃墜数6)など、多くのエースパイロットを輩出した。
また、B-10により、初めて日本本土空襲を行なっている(ただし、目的はビラ散布)。
第2次世界大戦終結後は共産党を相手に内戦を戦い(国共内戦)、アメリカから供与されたP-38やP-51を運用したが、政権内の共産主義シンパの影響を受けたハリー・トルーマン大統領が中華民国軍への支援縮小を決定したために支援が減少し、ソ連に支援された共産党の人海戦術に圧倒されて敗北。台湾に移動した。
なお、余談だが、東洋で始めて特攻攻撃を敢行したのは中国空軍である。
八路軍・新四軍
1937年、第二次国共合作の成立により、中国各地で活動していた中国共産党軍(紅軍)は国民革命軍の一部隊として編入された。これが八路軍・新四軍である。八路軍とは日中戦争時に華北方面で活動した紅軍の通称で、1937年8月、中国工農紅軍が"国民革命軍第八路軍"として国民政府指揮下に編入されたことからこの名称で呼ばれた。
装備こそ劣っていたものの、国民革命軍一般の兵士とは比べ物にならないほど士気は高く、神出鬼没なゲリラ戦を展開。作戦に支障が出るとはいかないまでも、数だけの国府兵たちとは逆に日本軍にとっては厄介な相手だった。
正規軍の他に、遊撃戦を行う民兵も多数組織され(便衣隊と呼ばれる)、41年以降はこれらの非正規軍の活躍が目立った。また、少年兵や娘子兵(女性兵士)も多くいた事も大きな特徴である。
一方、新四軍は華南地区で活動した紅軍の通称で、正式名称は国民革命軍新編第四軍、別名陸軍新編第四軍。内陸及び華南地域が活動地域であった為、直接日本軍と交戦する機会は八路軍ほど頻繁ではなく、むしろ国民党軍と対峙している戦線のほうが多かった。
装備
当初ドイツ軍事顧問の指導を受けていた為、国民革命軍は全体的にドイツ色の濃い装備をしていた。
軍装
兵士
一般兵士の軍装は、中山服(人民服)の上にドイツ式の規格帽を被り、官給品の編上靴か伝統的な布履を履いていた。真鍮製の階級章は戦闘時は基本的に付けず、右胸のラベルで階級や所属部隊を示していた。軍服の布質は非常に悪く、裁断もかなりいい加減だった。そんな彼らの姿を見た人の感想としては、皆「何あいつらだらしねぇな」で大体一致している。ヘルメットはドイツ製のM35ヘルメット(国内で劣化コピーも生産されたようだ)の他に、米軍式や英軍式、仏軍式、そして日本軍から分捕った鉄帽など様々な物を使用していた。
将校
左:夏用 右:冬用
将校用の軍服は、基本的なデザインは下士官兵用と殆ど変わらないが、生地の方は全く比べ物にならないほど上質である。まさしく成層圏とマリアナ海溝ほど違うと言っても過言ではないだろう。軍帽は本来制帽があったが、大東亜戦争開戦以降は殆ど使用されておらず、下士官兵同様の規格帽を被っている。ベルトはサム・ブラウン・ベルトを締め、乗馬ズボンの下にブーツか編上靴に乾脚絆を履いていた。生地の色合いは当初はブルーグレーだったが、大東亜戦争開戦後以降は夏は黄色がかったカーキ、冬は茶色に近い色となった。
また大戦末期になると、日本陸軍と同様、下図のようなODじみた色が好まれるようになる。
左の絵は蒋介石の軍服を再現したものであるが、彼自身も特注品のOD色の軍服を愛用していた。また、右のイラストでは制帽を被っているが、これは戦後新たに採用されたものである。
なお、この他大礼服も存在するが、中山服に規格帽の通常軍服をそのままゴージャスにしたようなデザインでかなり面白い。
武装
武装はGew98短縮型であるモーゼル・スタンダードモデル1924やkar98kのコピー、「中正式歩槍」(『中正』とは蒋介石の別名)の他に、末期にはM1ガラントも支給された。下士官以上は拳銃としてモーゼルミリタリーが支給され、サブマシンガンのような形で使用していた。本格的なサブマシンガンならトンプソンも使用されている。ただし、前述の通り最新鋭の武器を持てたのは精鋭部隊のみの話で、あとの部隊は旧式のGew88(最終的に1944年ごろまで生産されていたらしい)や抗日映画よろしく家伝の青龍刀や槍で攻撃・・・なんて事も少なくなかった(実際に日本軍は余るほど大量の青龍刀を捕獲品として手に入れている事が当時の捕獲品リストの記録より読み取れる。盧溝橋事変で日本陸軍と交戦した29師団には、日本軍の切り込み部隊みたく刀で攻撃する部隊が存在したらしい)一方軽機関銃はチェコ製のzb26を輸入しており、日本軍にとっては手ごわい相手だった。