カロル1世
かろるいっせい
概要
1925年、カロルが(主に女遊びによる)醜聞により王位継承権を放棄したため、1927年にカロルの父(ミハイの祖父)・フェルディナンド1世(第2代ルーマニア国王)が亡くなると第3代ルーマニア国王・ミハイ1世即位した。しかし1930年にカロルが帰国してミハイを退位させ、(第4代ルーマニア国王として)カロル2世として即位したため、ミハイは父の王太子となった。
しかしカロルは独裁政治を敷き、第二次世界大戦勃発の翌年の1940年にはソ連やハンガリー王国やブルガリア王国による外交圧力に屈して領土をそれらの国々に割譲したため、国民の不満は爆発。同年、アントネスク将軍(後に元帥)及びそれと組んだ極右団体・鉄衛団によるクーデターによりカロルは再びミハイに譲位してポルトガルへと逃亡。これによりミハイは第5代ルーマニア国王として再び即位することになった。
しかし法的にはミハイの権限はほとんどなく、実質的にはアントネスクが権限を握っていた。ちなみに、前述した鉄衛団は過激さを増した末にアントネスクに対して反乱を起こすも鎮圧された。
そして、ルーマニアは枢軸国へと加盟。ソ連により割譲させられていたベッサラビア及び北ブゴヴィナ奪還を掲げて独ソ戦に参戦。当初はドイツと共に優勢だったものの、次第にソ連軍による反撃に遭っていった。
これを見たミハイは、国防大臣・コンスタンティン・サナテスクと共にクーデターを決行。アントネスクを解任し、連合国と講和した。しかしその代償としてソ連により占領されてしまい、ルーマニア兵の捕虜13万人がソ連に強制的に送られて消息を絶つなどした。
第二次世界大戦そのものは1945年に終戦した。しかしソ連軍による占領は続き、戦後の1947年には強制的に王政を廃止されてミハイは国外へと逃亡。その結果、ルーマニアはソ連による傀儡政権が設立されて共産化してしまい、チャウシェスクによる恐怖政治などに苦しむことになった。
しかし1989年に起きたルーマニア革命によってルーマニアは民主化に成功。後の世論調査で、ルーマニア国民の歴代政治的指導者の中で最も信頼できるとされ、さらには56%がミハイに対して「良い」もしくは「非常に良い」感情を持っていることが判明した。
2017年に亡くなった。