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概要編集

第2代ルーマニア国王フェルディナンド1世の長男として誕生。


1916年、ルーマニアは連合国として第一次世界大戦に参戦。その後勝利し、国土を戦前の4割増やすことに成功した。


ルーマニアが国力を上げる中、カロルは女遊びに浸っており、独断でに平民女と結婚。一時は結婚を無効にされるも、又従妹のギリシャ王女・エレナ・ア・ロムニエイとの再婚。その後はマグダ・ルペスクを愛人にした。


そして、カロルは1925年に王位継承権を放棄してフランスパリに亡命。1927年にフェルディナンド1世が死去した際はカロルとエレナの子・ミハイ1世が即位した。


しかし1930年に帰国したカロルはミハイを退位させ、自身がカロル2世として王となった。そして極右団体・鉄衛団と組んで1938年に独裁体制を実現させた。しかし彼は鉄衛団を利用しようと考えていたに過ぎず、同年に鉄衛団を活動禁止にした。


1939年に第二次世界大戦が勃発。欧州情勢が複雑化する中、1940年にはソ連がルーマニアに対してベッサラビア及び北ブコヴィナの割譲を要求。カロルはこの要求にあっさりと応じてしまった。さらに第二次ウィーン裁定の結果、ドイツの後ろ盾を得たハンガリー王国に対して北トランシルヴァニアを割譲することになる。さらにはその後のクラヨーヴァ条約の結果、南ドブロジャブルガリア王国に割譲した。

こうして、ルーマニアの領土は1年間で大幅に縮小してしまったため、その政治的手腕を国民に疑われて支持を失い、ついには鉄衛団と組んだイオン・アントネスク将軍(のちに元帥)のクーデターにより退位させられ再びミハイ1世へと譲位。カロルはポルトガルへと逃亡した。


その後、ルーマニアはドイツ率いる枢軸国に加盟。ちなみに、過激さを増した鉄衛団はアントネスクに対して反乱を起こすもこれは鎮圧された。その後、ルーマニアはドイツ側として独ソ戦に参戦。当初は優勢だったが、次第に劣勢に立たされていき、ミハイのクーデターによりアントネスクは解任され、ルーマニアは連合国へと寝返り、枢軸国のドイツ及びハンガリーと交戦。1945年に連合国が勝利し、第二次世界大戦は終結。ルーマニアは北トランシルヴァニアの奪還に成功した。しかしルーマニアはソ連により占領されてしまっており、13万人ものルーマニア兵捕虜がソ連に強制的に連れて行かれ行方不明になるなどした。そして1947年にはソ連の圧力により王政が廃止され、ミハイも国外へと逃亡することになる。そしてルーマニアはソ連による傀儡政権が設立されて共産化してしまい、チャウシェスクによる恐怖政治などに苦しむことになった(しかし1989年にルーマニア革命によって民主化に成功した)。


一方のカロルはというと、逃亡の際に財産を持って行っており、ポルトガルでそれらを売って贅沢な暮らしを送っていた。そして1947年には、前述した愛人のマグダと結婚した。そして1953年、カロルは亡くなった。それから50年後の2003年に、彼の亡骸はルーマニアへと返還された。


関連タグ編集

フェルディナンド1世 ミハイ1世

ルーマニア王国 イオン・アントネスク 鉄衛団

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