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リュッツォウの編集履歴

2024-01-07 08:56:31 バージョン

リュッツォウ

りゅっつぉう

プロイセンの軍人とそれに由来する軍艦の名前。

リュッツォウとは

●神聖ローマ帝国の名門貴族。


ナポレオン戦争時のプロイセン軍の将軍であるルートヴィヒ・アドルフ・フォン・リュッツォウ。

リュッツォウ義勇部隊(通称:黒の猟兵)を率いてドイツ解放戦争を戦った。その軍服(黒い布地、赤い襟に金色のボタン)は現在のドイツ国旗の元となった。

以下の艦名は彼に因む。


ドイツ海軍の第一次世界大戦時のデアフリンガー級巡洋戦艦の二番艦。

1912年5月15日に起工。

1913年11月29日に進水。

1915年8月8日に就役するも、10月25日の試験航海中にタービンが損傷し、その修理などで第1隊殺部隊に配属されたのは1916年3月20日にずれこんだ。

1916年4月24日にヤ―マス、ローストフ砲撃の為に出撃した折にそれまで第1偵察部隊旗艦であった巡洋戦艦ザイドリッツが触雷し損傷したことから第1偵察部隊司令官代理フリードリッヒ・ボーディッカー中将の旗艦を継承した。ヤ―マス砲撃では沿岸砲台の砲弾を1発被弾したが損害は軽微であった。

5月31日~6月1日のジュトランド沖海戦でも偵察部隊司令官フランツ・フォン・ヒッパー中将の旗艦として参加。この戦いで英巡洋戦艦ライオンにはQ砲塔に命中させてあわや爆沈に追い込むなど多数の命中弾を与え、姉妹艦のデアフリンガーと共に英巡洋戦艦インヴィンシブルを撃沈、また英装甲巡洋艦ディフェンスを僚艦達と共に撃沈するも、インヴィンシブルによる艦首部に集中した8発の命中弾のうち特に艦首喫水線下魚雷発射管に命中した2発の命中弾が大量の浸水を引き起こして速度が低下、浸水も前部砲塔弾倉に達し、既に無線機も損傷で使用不能となっていた事もあり接舷した水雷艇G39にヒッパー提督と司令部スタッフは収容され巡洋戦艦モルトケに移譲する事となった。

其の後、水雷艇の護衛のもとヴィルヘルムハーフェンを目指すも、制御棒が詰まって前方のメイン排水ポンプが使用不能となり、増大する浸水に排水ポンプで処理できなくなり、前部発電機、前部ボイラーにも浸水が始まり、遂に8000トンと推測される浸水で艦前部の殆どが沈み、艦尾とスクリューが海面より浮き上がるいつ転覆してもおかしくない事態となり、英艦隊の追撃も考慮して曳航は断念され、6月1日早朝、護衛の水雷艇に乗員を収容後に水雷艇G38の魚雷2本を受けて処分された。

大口径砲弾の被弾は24発と推測され、1214名の乗組員のうち戦死者は115名、負傷は50名であった。

SMSリュッツオー


第二次世界大戦前に建造されたドイツ海軍のアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦の5番艦、未完成のままソ連に売却され、ペトロパヴロフスクと改名されたが、独ソ戦が勃発したため完成度は70%のまま完成しなかった。なお同艦はそのまま浮き砲台としてレニングラード攻防戦に参加。一度撃沈されたが引き揚げてレニングラード攻防戦の包囲突破戦に参加している。戦後は練習艦ドニエプルになり、海上兵舎PKZ-112を経て1958年に解体。


同じく第二次大戦時ドイツ海軍の、ポケット戦艦一番艦ドイッチュラントが、ドイツ国という名の軍艦が沈むのを嫌って改名されたのちの名前→ドイッチュラントpixivでは主にこの軍艦を指して用いられる。

ドイッチュラント級装甲艦


第二次世界大戦中のドイツ空軍のエースパイロットであるギュンター・リュッツオウ。最終階級は大佐であった。

1912年9月4日、プロイセン王国のキールで世を受ける。

当初は神学系の教育を受け、プフォルタ州立学校を卒業するも、卒業後は軍人の道に進む。

表向きは陸軍所属ながら飛行訓練を受け、空軍が再び創立された折には中尉であった。

第3戦闘航空団(JG3)司令、戦闘機総監参謀、イタリア戦線昼間戦闘機隊総監、第1戦闘機師団長、第4飛行訓練師団長、イタリア戦線戦闘航空兵指導官などを務め、スペイン内戦では5機、第二次世界大戦では103機(東部戦線85機、西部戦線で18機)を撃墜し、スペイン内戦で初めてBf109で初めて敵機を撃墜し、またヴェルナー・メルダースに続いて100機撃墜を達成したエースであった。

だが、戦闘・指揮よりは、宗教教育と生来の強い性格に裏付けられた教養と高潔な人格から徳目ある指揮官とみなされての隊の指導者として評価された。

その象徴がアドルフ・ガーランドが戦闘機総監を更迭されたのを機に空軍司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥に高級将校の代表として、これまでの元帥のやり方に対する抗議を提出し、1945年1月22日のベルリンでのゲーリングとの会議で抗議内容を説明した「戦闘機パイロットの反乱」事件であろう。

この会議でゲーリングは激怒して彼の抗議に聞く耳を持たず、「軍法会議にかけてやる」との捨て台詞を残して退出し、後に軍法会議にこそかけなかったもののイタリア戦線戦闘航空兵指導官に左遷された。

また第3戦闘航空団司令時代には親衛隊が彼にユダヤ人、ソ連軍政治将校、その他反ドイツと思しき面々を殺害するための人員提供を要請した時は、航空団員達にそのような野蛮行為に志願するような者がいれば指揮権を返上し軍務を退くと訓示した高潔さも見せている。

一説にはガーランドが彼をその後に戦闘機隊総監参謀に任じて手元に呼び寄せたのも彼をナチス党・親衛隊から守る為だったという見解もある。

左遷後はガーランドの呼びかけに応じ、Me262を擁する第44戦闘航空団(JG44)に参加し、2機の戦果をあげたが、1945年4月24日の迎撃戦で行方不明となった。

「ドイツ空軍で最も優れた指揮官であり、指導者だった。他に何人も彼を超えるものはいない」とガーランドは彼を評したという。


ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲のピアノ協奏曲第8番 ハ長調のこと。依頼者がリュッツォウ家の人だったためこの名がついた。

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