ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

テトラテマの編集履歴

2024-01-13 00:54:57 バージョン

テトラテマ

てとらてま

アイルランド生産・イギリス調教の競走馬・種牡馬。短距離レースで活躍した。

概要

アイルランド生産・イギリス調教の競走馬種牡馬

主な勝ち鞍は2000ギニーステークス(1920年)、ジュライカップ(1921年)など。

短距離を得意とし、勝ったレースは全て6ハロン以下の距離だった。


プロフィール

性別
毛色芦毛
ザテトラーク
スコッチギフト母父シミントン
生産者ダーモット・マッカルモント少佐
馬主ダーモット・マッカルモント少佐
調教師ヘンリー・シーモア・パース(イギリス)
競走成績16戦13勝

略歴

1917年

ダーモット・マッカルモント少佐が所有するバリーリンチ牧場(アイルランド)で誕生。

父のザテトラークは葦毛の快速馬だった。種付けが嫌いで産駒が少なかったが、ムムタズマハルなどを輩出して後世に絶大な影響を与え、「近代競馬のスピードの源泉」とも言われている。

母のスコッチギフトは全弟にザサトラップがいる。母父のシミントンは12戦2勝と凡庸な成績だった。

離乳するとマッカルモント少佐の従兄弟でザテトラークの共同馬主で調教師でもあった、ヘンリー・シーモア・"アティ"・パースに預けられた。


1919年

7月21日、サンダウン競馬場ナショナルブリーダーズプロデュースステークスでデビューし1着。

8月1日、グッドウッド競馬場モルコムステークスに出走し1着。

9月9日、ドンカスター競馬場シャンペンステークスに出走し1着。

10月10日、ケンプトン競馬場インペリアルプロデュースプレートに出走し1着。テトラテマを恐れて回避する馬が続出しネスポーラと2頭だけのレースだった。

10月17日、ニューマーケット競馬場ミドルパークプレートに出走し1着。

イギリス競馬の2歳チャンピオンとなった。


1920年

4月9日、ニューベリー競馬場グリーナムステークスに出走。多頭数のため馬群に包まれるのを嫌い逃げを打ったが、シルヴァーンの2着に敗れた。

4月28日、ニューマーケット競馬場の2000ギニーステークスに出走。前走に続き逃げを打って1着。

6月2日、エプソム競馬場ダービーステークスに出走。アボッツトレイスと激しく競り合ったが、レース中盤で早くもスタミナが切れ失速。スピオンコップの14着に敗れた。

6月16日、アスコット競馬場ファーンヒルステークスに出走し1着。

7月16日、サンダウン競馬場のエクリプスステークスに出走し、バッカンの5着に敗れた。シルヴァーンやアレンバイといった同世代馬にも後れを取ったため、以降は短距離レースのみに出走。

7月28日、グッドウッド競馬場のキングジョージステークスに出走し1着。

10月13日、ニューマーケット競馬場のケンネットステークスに出走し1着。


1921年

6月17日、アスコット競馬場のキングススタンドステークスに出走し1着。

6月30日、ニューマーケット競馬場のジュライステークスに出走し1着。

7月27日、グッドウッド競馬場のキングジョージステークスに出走し1着。

8月、現役引退が発表されるが後に撤回。スネイルウェルステークスを引退レースとする事となる。

9月29日、ニューマーケット競馬場のスネイルウェルステークスに出走し1着。


1922年

バリーリンチ牧場に帰り、種牡馬となる。

産駒は短距離で好成績を収め、2400m以上のレースで成績をあげたものはなかった。


1929年

イギリスとアイルランドのリーディングサイアーとなる。


1939年

7月、死亡(20歳)。


主な産駒


※セフトは1937年に種牡馬として日本に輸出され、トキノミノルなど多くの活躍馬を輩出した。


余談

  • 距離はマイルでも長く、完全なスプリンターだった。
  • 非常に利口な馬で、状況判断やペース配分まで自分でこなし、騎手はただ跨っているだけだった。ザテトラークの激しい気性を受け継がず、内気で大人しかった。
  • 先頭グループの後ろを馬群に包まれないよう注意しながら追走して残り300mから差して勝つというスマートなレース運びを多用し、他馬の馬主たちは自分の持ち馬が間抜けに見えてがっかりした。

関連タグ

競走馬 種牡馬 1920世代

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました