概要
主な勝ち鞍は2000ギニーステークス(1920年)、ジュライカップ(1921年)など。
短距離を得意とし、勝ったレースは全て6ハロン以下の距離だった。
プロフィール
略歴
1917年
ダーモット・マッカルモント少佐が所有するバリーリンチ牧場(アイルランド)で誕生。
父のザテトラークは葦毛の快速馬だった。種付けが嫌いで産駒が少なかったが、ムムタズマハルなどを輩出して後世に絶大な影響を与え、「近代競馬のスピードの源泉」とも言われている。
母のスコッチギフトは全弟にザサトラップがいる。母父のシミントンは12戦2勝と凡庸な成績だった。
離乳するとマッカルモント少佐の従兄弟でザテトラークの共同馬主で調教師でもあった、ヘンリー・シーモア・"アティ"・パースに預けられた。
1919年
7月21日、サンダウン競馬場のナショナルブリーダーズプロデュースステークスでデビューし1着。
8月1日、グッドウッド競馬場のモルコムステークスに出走し1着。
9月9日、ドンカスター競馬場のシャンペンステークスに出走し1着。
10月10日、ケンプトン競馬場のインペリアルプロデュースプレートに出走し1着。テトラテマを恐れて回避する馬が続出しネスポーラと2頭だけのレースだった。
10月17日、ニューマーケット競馬場のミドルパークプレートに出走し1着。
イギリス競馬の2歳チャンピオンとなった。
1920年
4月9日、ニューベリー競馬場のグリーナムステークスに出走。多頭数のため馬群に包まれるのを嫌い逃げを打ったが、シルヴァーンの2着に敗れた。
4月28日、ニューマーケット競馬場の2000ギニーステークスに出走。前走に続き逃げを打って1着。
6月2日、エプソム競馬場のダービーステークスに出走。アボッツトレイスと激しく競り合ったが、レース中盤で早くもスタミナが切れ失速。スピオンコップの14着に敗れた。
6月16日、アスコット競馬場のファーンヒルステークスに出走し1着。
7月16日、サンダウン競馬場のエクリプスステークスに出走し、バッカンの5着に敗れた。シルヴァーンやアレンバイといった同世代馬にも後れを取ったため、以降は短距離レースのみに出走。
7月28日、グッドウッド競馬場のキングジョージステークスに出走し1着。
10月13日、ニューマーケット競馬場のケンネットステークスに出走し1着。
1921年
6月17日、アスコット競馬場のキングススタンドステークスに出走し1着。
6月30日、ニューマーケット競馬場のジュライステークスに出走し1着。
7月27日、グッドウッド競馬場のキングジョージステークスに出走し1着。
8月、現役引退が発表されるが後に撤回。スネイルウェルステークスを引退レースとする事となる。
9月29日、ニューマーケット競馬場のスネイルウェルステークスに出走し1着。
1922年
バリーリンチ牧場に帰り、種牡馬となる。
産駒は短距離で好成績を収め、2400m以上のレースで成績をあげたものはなかった。
1929年
イギリスとアイルランドのリーディングサイアーとなる。
1939年
7月、死亡(20歳)。
主な産駒
生年 | 馬名 | 主な勝ち鞍 |
---|---|---|
1923年 | ドウシュク | ヨークシャーオークス |
1924年 | フォースハンド | アイリッシュ2000ギニー |
1925年 | ロイヤルミンストレル | エクリプスステークス |
1926年 | ティフィン | ジュライカップ |
1926年 | ミスタージンクス | 2000ギニーステークス |
1928年 | フォーコース | 1000ギニー |
1931年 | バザー | ホープフルステークス |
1932年 | セフト※ | ジャージーステークス |
1935年 | パンプキン | サラトガスペシャルステークス |
1936年 | プロメテウス | ジュライステークス |
※セフトは1937年に種牡馬として日本に輸出され、トキノミノルなど多くの活躍馬を輩出した。
余談
- 距離はマイルでも長く、完全なスプリンターだった。
- 非常に利口な馬で、状況判断やペース配分まで自分でこなし、騎手はただ跨っているだけだった。ザテトラークの激しい気性を受け継がず、内気で大人しかった。
- 先頭グループの後ろを馬群に包まれないよう注意しながら追走して残り300mから差して勝つというスマートなレース運びを多用し、他馬の馬主たちは自分の持ち馬が間抜けに見えてがっかりした。