来歴
彼は上品で立派な容姿の持ち主で、沈着冷静、先見の明に長けていた。
若いときから評判が高く、夏侯玄や何晏らと名声を等しくした。何晏は常々、司馬師を称えて「ただ司馬子元だけが、天下の務めを果たすことができる」と言っていた。
魏の景初年間に散騎常侍を拝命し、中護軍(中領軍と共に皇帝の近衛兵の指揮をする役職)に昇進する。
司馬師は司馬懿と共に曹爽に対するクーデターの計画を練ったが、弟の司馬昭すら兄の考えを知ることはできなかった。
249年、クーデター決行日の早暁、司馬師は司馬孚と共に速やかに洛陽宮城の城門を押さえ、内外を鎮撫した。その整然とした陣容を見た司馬懿は「子元もやるようになった」と言った。
251年に司馬懿が亡くなると撫軍大将軍として魏の全権を掌握。252年には大将軍になった。
252年、胡遵・諸葛誕らに呉の東興を攻めさせたが、呉の大将軍の諸葛恪に大敗を喫した(東興の戦い)。
この敗戦の罪を諸将に問うべきという意見が朝廷ではあったが、司馬師は「諫言を聞かずここに至った。これは私の過失である。諸将に何の罪があろうか」と、その罪を自ら引き受けようとしたため、かえって人々は皆恥じてその度量に服したという。
その翌年、諸葛恪が大軍を率いて合肥新城に攻め寄せると、叔父の司馬孚らを援軍に向かわせ、逆に諸葛恪を撤退させることに成功。
のちに敗戦の責任を追及された諸葛恪は、孫家の一族である孫峻に殺害されている。
254年には皇帝の曹芳が、夏侯玄らと共に司馬師を排除しようとしたが、これを未然に察知した司馬師は、夏侯玄をはじめとする者らを処刑した上で曹芳を廃し、曹髦を新しい皇帝に擁立した。
この一連の司馬師の行動に過敏に反応したのが、生前夏侯玄と親しかった毌丘倹と文欽であった。結果、二人は共謀して寿春で反乱を起こすに至る。
しかし、これは司馬師の専横に危機感を覚えたが故の急造同盟であり、平時からの仲はお世辞にもいいとは言えないもので、反乱は早々に鎮圧された。
しかしこの反乱鎮圧の最中、文欽の息子である文鴦の奇襲を受け、古傷が悪化してしまう。
この反乱後、暫くして許昌にて死没した。
(創作物だと、目の腫れ物が悪化して死ぬ、奇襲を受けた時に目が飛び出てそこから悪化して死んだ、といった具合の展開になることが多い)
男子がいなかったため司馬昭の息子・司馬攸を養子にしていたが、彼が司馬昭の長男司馬炎の弟であることを考慮し、司馬昭に後を託すことになった。