オーモンド
おーもんど
概要
同国の3歳クラシック三冠を達成し、16戦16勝の生涯成績を残した。
略歴
1883年
3月18日、初代ウェストミンスター公爵ヒュー・ルーパス・グローヴナーの所有するイートン・スタッドで誕生。
父のベンドアはウェストミンスター公爵が所有し、現代のサラブレッドの父系の80%が属する血統の祖である。
母のリリーアグネスは喘鳴症を患いながら32戦して21勝を挙げた。母父のマカロニはウェストミンスター公爵が所有し、牝馬の活躍馬を多く出した。
生まれつき膝が曲がっており、成長も遅かった。
ヴィクトリア朝時代最も成功した調教師とされるジョン・ポーター師に預けられる。
1885年
10月、ニューマーケット競馬場のポストステークスでデビューし1着。この月はクリテリオンステークス、デューハーストプレートにも出走し3戦3勝とした。
1886年
4月28日、ニューマーケット競馬場の2000ギニーステークスで1着。
6月、アスコット競馬場に移動し、セントジェームズパレスステークス、ハードウィックステークスを勝った。
9月、ドンカスター競馬場のセントレジャーステークスで1着。無敗のイギリス三冠馬となる。この頃から母リリーアグネスが患った喘鳴症の兆候が表れた。グレートフォールステークス、ニューマーケットセントレジャー(対戦相手が現れなかったため単走勝利)、チャンピオンステークスも勝った。
10月、ニューマーケットフリーハンデキャップとプライベートスウィープステークス(対戦相手が現れなかったため単走勝利)を勝ち13戦13勝とした。喘鳴症の症状が悪化し、Roarer(吠える者)と呼ばれた。
1887年
6月、ラウス記念ステークス、ハードウィックステークスと連闘連勝するが、ハードウィックステークスではミンティングに首差と生涯唯一の辛勝。喘鳴症は限界を迎えていた。
7月、ニューマーケット競馬場のインペリアルゴールドカップを勝ち引退。レース後、ヴィクトリア女王の誕生祭に主賓として招待された。
1889年
生まれ故郷のイートン・スタッドで種牡馬入りするが授精率が悪く、初年度は16頭の繁殖牝馬と交配し産駒は7頭だった。牧場には父・ベンドアという有力種牡馬がいたためモールトン牧場へリースされることになる。
1890年
モールトン牧場で供用されたが体調を崩してほとんど交配できず、産駒は1頭だった。イートン・スタッドに戻って体調は回復したが、アルゼンチン共和国の馬産家フアン・サルバドール・ブコーに売却された。
1891年
アルゼンチンへ輸出され、20頭の産駒を出したが勝ち上がりは4頭だけだった。イギリスに残してきた産駒のゴールドフィンチ、オーム、エルランソニーらが活躍し、ヒューム・ウェブスターがイギリスに買い戻そうとしたがブコーが3万2000ポンドという高額を提示してきたため話がまとまらなかった。
しかし、その話を聞いたアメリカ合衆国のチャーリー・リードとウィリアム・オブライエン・マクダナーが購入を望み、15万ドルで取引が成立した。
1893年
一旦アルゼンチンからイギリスに戻ってリッチモンド公爵のグッドウッド・ハウスで休養した後、年末にアメリカへ輸出された。
1894年
マクダナー所有のカリフォルニア州の牧場で種牡馬として供用される。
産駒数は11年で16頭だったが5頭がステークスウイナーとなった。
1904年
5月21日、呼吸困難と半身不随になり、安楽死の措置が執られた(21歳)。