概要
グローヴナー家は青地に金色の襷がかかった紋章を使用していたが、スクループ家が自分の家の物だから使用しないようにと裁判所に訴え、グローヴナー家は違う紋章に変更する事になった。そのため、黄金の襷の紋章を馬名だけでも使用したものと思われる。
主な勝ち鞍はダービーステークス(1880年)、シティアンドサバーバンハンデキャップ(1881年)、エプソムゴールドカップ(1881年)など。
産駒のボナヴィスタを通じ、現代のサラブレッドの父系の80%が属する血統の源流となっている。
プロフィール
略歴
1877年
初代ウェストミンスター公爵ヒュー・ルーパス・グローヴナーの所有するイートン・スタッドで誕生。
父のドンカスターは大種牡馬ストックウェルの仔でフェアウェルなどを輩出した。
母のルージュローズは不出走だったが、半姉パラダイムがロードリオン、アチーヴメントなどを産んでいた。母父のトーマンバイは25戦14勝でヘロドの血を引いていた。
体高が高く逞しい馬体で、明るい栗毛に黒い斑点(ベンドア斑)が散らばるという特殊な毛色を持っていた。気性は優しく、仔羊のように従順と言われた。
1879年
ドンカスターを手掛けたロバート・ベック調教師に預けられた。
7月、ニューマーケット競馬場のチェスターフィールドステークスでデビューし1着。その後、7月末までに5連勝を飾ったが、脚部不安により休養に入る。
1880年
5月26日、エプソム競馬場のダービーステークスに出走。脚部不安からぶっつけ本番となる。主戦のフレッド・アーチャー騎手もミュリーエドレスに噛みつかれ右腕の筋肉を噛みちぎられるという大怪我を負っていたが、右腕に鉄板を巻いて騎乗を強行。アーチャー騎手は鞭を落としてしまうなどピンチだったが、ロバートザデヴィルとのマッチレースを頭差制して1着。
6月、アスコット競馬場のセントジェームズパレスステークスに出走。フェルナンデスとのマッチレースを頭差制して1着。秋まで休養に入る。
9月15日、ドンカスター競馬場のセントレジャーステークスに出走。暴風雨の中、不良馬場でのレースとなり、足元に不安のあるベンドアはロバートザデヴィルの5着に敗れた。
9月28日、ニューマーケット競馬場のグレートフォールステークスに出走。最終直線でロバートザデヴィルの叩き合いとなったが、ロバートザデヴィルにゴール前で差し返され頭差の2着に敗れた。
10月14日、ニューマーケット競馬場のチャンピオンステークスに出走。ロバートザデヴィルが逃げ切って勝ち、10馬身差の2着に敗れた(3着のレベラーには更に10馬身差が付いていた)。
1881年
4月、エプソム競馬場のシティアンドサバーバンハンデキャップに出走し1着。
6月3日、エプソム競馬場のエプソムゴールドカップに出走。他の馬がベンドアとロバートザデヴィルを怖れて出走を辞退したため2頭だけの出走となった。残り1ハロンで前に出て、首差で1着。
10月、ニューマーケット競馬場のチャンピオンステークスに出走し1着。
10月、ニューマーケット競馬場のケンブリッジシャーステークスに出走し、フォックスホールの5着に敗れた。レース中に脚を痛め、現役引退となる。
1882年
イートン・スタッドへ帰り、種牡馬となる。セントサイモンがいたためリーディングサイアーになる事はなかったが、優秀な成績をおさめ、イギリス三冠馬オーモンド、2000ギニー優勝馬ボナヴィスタなどを輩出。
1903年
1月、午後の散歩に出かけた際、突然うずくまってそのまま息を引き取った(26歳)。
入れ替わり疑惑
1880年6月、ロバートザデヴィルの馬主から「ダービーでトップゴールしたのは、ベンドアではなくタドカスターという馬であり、失格である」という申し立てがなされた。ベック師がラスリーの調教場に移動させた際、不注意が原因でクレメンスの仔のタドカスターとルージュローズの仔のベンドアが入れ替わり、ダービーに出走したのは(ベンドアという名で登録されていた)タドカスターであり、ロバートザデヴィルが本当の勝ち馬であるという内容だった。
2頭が入れ替わったと証言したのはイートン・スタッドを解雇された厩務員のリチャード・アルヌルで、裁決委員は逆恨みと判断し、ベンドアは血統登録通りルージュローズの産駒と認められた。
しかし、2011年に自然史博物館に保管されているベンドアの骨のDNA調査が行われ、クレメンスの仔らしい事が判明した。