概要
臨済宗夢窓派の僧侶。竜淵本珠・瑞渓周鳳・春渓洪曹に学び、特に瑞渓には深く師事した。また雲章一慶について『勅修百丈清規』の講を聴き、瑞渓の寂後は希世霊彦(村庵)にも師事している。応仁の乱に際しては、親友桃源瑞仙に伴われて、その郷里近江市村に、またさらに同国永源寺の竜門庵に疎開し、この地の豪族小倉実澄の帰依を受け、同寺内に識廬庵を創建して住んだ。
文明4年(1472)、京都に帰還し、相国寺常徳院で焼け残っていた樵雲軒に寓居したが、細川勝元が同寺慶雲院の故地を譲りうけ、小補軒を創めて与えたので、ここに定住する。同7年12月、室町幕府より景徳寺の住持公帖を受け、同十年二月、等持寺の住持公帖を受け、3月入院する。同12年7月、相国寺の住持公帖を受け、同十三年、近江に下向、小倉実澄と再会、久濶を叙し、同十五年、嵯峨真浄院に空谷明応の塔を守り、その塔主となり、同17年、再び相国寺の公帖を受け、再住入院の儀を行なっているが、僅か10日足らずで退院した。
長享元年(1487)11月には、南禅寺の公帖を受け、足利義政より金襴の伽梨を授けられたが、入院はしなかった。延徳2年(1490)5月、相国寺鹿苑院の塔主に擬せられたが、辞退し、一乗寺村の投老庵に隠遁する。同三年、臨川寺三会院の塔主に任ぜられ、明応元年(1492)12月、鹿苑院塔主に就任、僧録を司ったが、半年にして辞任した。これより先同年6月、旧知の永原重泰の葬送を行うために、近江花成寺に下向し、同2年。一周忌のため、また同寺に下向、同年の11月、相国寺常徳院小補軒で逝去。享年65歳。