概要
東南アジア、インドシナ半島にある立憲君主制の王国。クメール語表記ではកម្ពុជា、首都は中部のプノンペンである。
国民の大多数はクメール人で公用語はクメール語。
9世紀初頭に成立したクメール王朝が元となっており、1863年よりはフランスの保護国となり形式上王政が維持されつつも、一部領土をタイに分割されたりと波乱万丈が続いた。
1953年に「カンボジア王国」として完全独立したもののベトナム戦争の巻添えを食う形で混乱が続き、王であったノロドム・シハヌークが一旦退位して父のスラマリットに王位を譲り自らが政治の実権を握った。しかしその後も混乱は続き、1970年に親米政策を掲げるロン・ノル将軍がクーデターを起こして王政を廃止、「クメール共和国」となった。さらにその後、1975年にクメール・ルージュ(カンボジア共産党)が国を制圧してポル・ポトの独裁体制となり、彼らに一時期担がれていたシハヌークは幽閉される。
1979年にベトナムに逃げ込んでいた難民たちがベトナムの後押しも得てポル・ポトを追い出しヘン・サムリン政権によるカンプチア人民共和国となる(ポル・ポト政権崩壊直前にシハヌークは脱出し、国外に亡命)。その後、国内ではベトナム軍が駐留するも、これに反発する旧王党派はじめとする反ベトナム勢力との内戦が10年間続いた。国内経済が行き詰まっていたベトナムは刷新政策(ドイモイ)を掲げ、この一環として1989年にベトナム軍が撤退した事で中国に亡命していたシハヌークが1991年に帰国、1993年に王政が復帰しシハヌークが再即位し現在の立憲君主制の体制となる。
1998年からカンボジア王国首相、カンボジア人民党議長となったフン・センによる一党独裁体制が強まり、カンボジアは再び独裁国家に陥った。
王室および有名な地域
国民の多くが王室を敬い、仏教信仰が厚いとされ、北西部のシェムリアップには世界遺産アンコールワットが存在する。
王政
2005年にシハヌークが病気療養のため退位( 後2012年、長い闘病生活の末、89歳で崩御 )。その時点で皇太子( 異母兄が3名存命であったようだが、辞退したり継承権争いの結果、除外されたりした模様 )となっていたノロドム・シハモニが、王位を継承した。
国王
しかし、選挙君主制を採用しておりノロドム家とシソワット家のメンバーから王室評議会により選出され国王に即位する。議員は、首相・両院正副議長・上座部仏教の二宗派の代表で秘密投票により選ばれる。国王は終身制である。
関連タグ
作品
- 地雷を踏んだらサヨウナラ⋯ポル・ポト政権下に潜入した写真家・一ノ瀬泰造氏のドキュメンタリー。
参照
- wikipedia:同項目およびリンク先
- 外務省:カンボジア情勢と日・カンボジア関係