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内村鑑三の編集履歴

2024-09-06 16:36:38 バージョン

内村鑑三

うちむらかんぞう

日本のキリスト教思想家、教育者。

概要

キリスト教思想家・文学者。1861年3月23日〜1930年3月28日)。

福音主義信仰と時事社会批判に基づく、日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。「代表的日本人」の著者でもある。


札幌農学校(のちのクラーク大学)2期生で、新渡戸稲造と、農学者宮部金吾は同期。初めは耶蘇(キリスト教の俗称)を嫌っていたが、入学して変えられる。

卒業後に渡米。そして、それまでのことを書いたのが英文の自伝『余は如何にして基督信徒となりし乎』で、この本は内村の生前から世界各国で広く読まれることになる。


帰国後、第一高等中学校(東大教養学部の前身)の教師をしていたとき、教育勅語への礼拝を十分にしなかったことが不遜とされ、社会から厳しく弾圧される(不敬事件)。

この不敬事件で第一高等学校の教師を辞めさせられる。同教授の井上哲次郎、同胞のキリスト教会から激しく攻撃され体調を崩し、生死の境をさまようところまで苦しめられる。


世に見捨てられた内村を支え、献身的に看病したのが妻・かずであった。内村は病状回復するが、妻は亡くなってしまう。このとき、内村は『基督信徒のなぐさめ』と題する本を執筆。この本が、思想家・内村鑑三の誕生を告げることになる。この本で彼は、はじめて「無教会」という言葉を用いる。

内村をめぐっては「二つのJ」という表現がある。イエス・キリスト(Jesus)と日本(Japan)。内村は「二つのJ」への献身を誓う。

1908年刊行された『代表的日本人』は、日本が近代化を推し進めていた明治時代、英語で出版される。この本は同時期に、同じく英語で書かれた新渡戸稲造の『武士道』、岡倉天心の『茶の本』とともに、日本人の精神性を世界にむけて発信した名著のひとつとして海外で知られる。


日本が韓国を植民地とし、国民の誰もが欧米列強並みの強国になったことに歓喜したことがあった。しかし内村は違った。時流に逆らい、「国を失って悲しむ民あり」と言って、韓国民に同情した。その上、「もし人が全世界を獲るとも、その霊魂を失うならば、何の益があろうか(マルコ福音書8章36節の引用)」と言って、日本を断罪した。その結果、売国奴、国賊と罵られる結果となったが、彼は良心の声を裏切ることができなかったのである。


51歳の頃に次女、ルツ子の死を迎える。しかし、彼はルツ子との永遠の別れを認めず、「今日のこの日は葬式ではなく、ルツ子が天に嫁ぐ結婚式です」と宣言し、参列者を驚かせた。さらに埋葬の折、内村は棺にかける土をつかみ、その手を天に高くさし出し、「ルツ子さん、万歳」と絶叫した。その場にいた矢内原忠雄(後の東大総長)は、雷に打たれたように立ちすくんでしまったという。


1930年3月28日、家族と弟子たちに見守られ、内村は静かに息を引き取った。享年69。

評価

不敬事件のせいで左翼と思われがちだが、本人はクリスチャンであり愛国者でもあった。かつて新渡戸稲造は「愛国とキリストへの信仰は両立できる」と自負していた。内村も同様に、信仰と愛国を貫き続けた人物である。



著作

一部青空文庫で読める作品もある。ぜひ読んでみてほしい。

青空文庫のリンク

西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳中江俊樹日蓮の5人の生涯を通し、「天」に導かれた彼らの生き様や人との関わり方を通して、内村が伝える精神的自叙伝。

  • 基督信徒の慰め

内村の処女作。作家の正宗白鳥は、若かりし頃、この書を紙がすり切れるまで愛読したという。


関連タグ

教育者 キリスト教

明治時代

クラーク大学

群馬県


内村鑑三は「『こ』心の灯台 内村鑑三」として出てくる。

  • 福沢諭吉⋯内村は福沢を「宗教の大敵」として批判していた。事実、福沢はたびたびキリスト教を批判していたが、娘はクリスチャンであり、福沢自身は信徒ではないもののミッション系大学に支援している。

外部リンク

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