新井白石は徳川家宣の「正徳の治」という政治改革を行った学者である。
久留里(千葉県君津市)藩士の子として江戸に生まれ、29歳まで独学で学問をやってきた白石は、貞享3年(西暦1686年)に朱子学者・木下順庵の門人となった。
木下は白石を高く評価し、37歳のとき、甲府藩にあった徳川綱豊(後の家宣)に推挙した。
6代将軍家宣に仕え、幕政の改革を推進したが(称徳の治)、8代将軍徳川吉宗の時には政界から退けられ、著述に専念した。
『読史余論』などの日本史に関する著述や、『西洋紀聞』など蘭学の先駆的業績でも有名。
また白石の詩は盛唐の趣を持つ本格的なものと評価され、頼山陽によって、祇園南海・梁田蛻巌・秋山玉山とともに「正徳の四大家」と称せられた。