概要
日本は古来、海外雄飛の気風盛んであったが、寛永鎖国以後、久しく抑圧されて明治維新に至った。ここに鎖国の禁は解かれたが時すでにおそく、欧米勢力は日本の海外発展の進路を、到る所に閉ざして圧迫した。
①イギリスのインドにおける日本の紡績の閉め出し工作、雑貨に対する高率関税、更に日本綿糸および人絹の本国および植民地における輸入割当制実施、オーストラリアの対日禁止的高率関税の賦課、アメリカの日本移民禁止、蘭印の関税引上げ、ソ連の漁業権問題などの経済的圧迫、②足尾銅山の暴動事件以来しきりに発生した社会主義運動、アメリカ大統領ウィルソンの主唱したデモクラシー、ロシア・ドイツ・イタリアの革命運動に刺激された共産主義と組合主義運動、マルクス主義運動によるキャッスル事件などの思想的撹乱、③日英同盟の廃棄(大正10年)に代表されるように外交的立策を策し、後には日本が国際連盟を脱退しなければならないようにするなど・・・経済的・思想的・外交的に欧米諸国は圧迫を加えて日本の国力の発展を抑えようとしたが、これらのことは東アジアを欧米諸国の属領たらしめんとする方策に他ならなかった。
これら欧米の対日圧迫は中国援助の傾向となり、それを利用する中国はソ連とも結んで遂に満洲事変を惹起した。
国民政府および張学良の東北政権は、日本が隠忍自重して中国当局による排日侮日的暴行掠奪(その具体的内容については後述)を耐え忍んでいたのを、日本の国力の無為無力によるものと勝手な解釈を下して、まあすます暴虐な行動をとったため、日中両国の満洲における関係は次第に険悪となった折柄、昭和6年5月、万宝山で朝鮮人同胞の集団的殺掠事件が行われ、日本国民の憤激は高潮した。続いて7月、内蒙古蘇鄂公府で中村大尉虐殺事件が起こり、日本国民の憤激は頂点に達した。しかも東北政権は南京政府と通牒してこの事実を否認し、あくまで日本を侮辱した。この時に9月18日の柳条湖における満鉄爆破事件が起こり、日本の守備隊はこの中国政府の不信不義の行為に対して立ち上がって張学良の東北軍を満鉄沿線外に駆逐し、張学良政権を壊滅させた。
満洲事変は昭和8年の熱河掃蕩作戦によって一段落を告げたが、中国軍はなお失地回復と称して、しばしば満洲国境を侵して交戦を試みた。そのため日中の国交は、後の日支事変勃発を孕む危険な状態になったのであった。
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→ 満洲事変