享保の改革
きょうほうのかいかく
江戸時代、8代将軍徳川吉宗が行った幕政改革の総称。江戸幕府三大改革の一つ。綱紀の粛正、質素倹約の励行、目安箱の設置、公事方御定書の制定、足し高の制、上米の制、相対済令、定免制の採用、新田の開発、新作物栽培の奨励などの政策が行われた。
改革の評価
吉宗の将軍就任時の幕府財政は危機的状況であったことから、幕府財政を稀代のケチで知られる初代将軍徳川家康を見習った質素倹約で立直す方針をとり、自らも質素な生活を実践した。また大岡忠相を起用した社会政策、飢饉対策など多くの課題に取り組み成功させた。
この頃には農業の発展により米の流通量が十分に増えており、その値崩れも著しかったため、吉宗はそれまでの米作偏重を改めて菜種、綿花、藍、養蚕、サツマイモ、サトウキビなど飢饉対策作物や商品作物の生産を奨励。これは現金収入が得られる農民達はもちろん、米価低迷に喘ぐ武士たちからも大いに歓迎された。というのは、武士は給料を米でもらうので、米価下落は実質的に賃下げと同じことになってしまうからである。江戸の美化・緑化や行楽地の整備に意を払い、殺風景だった江戸の町を緑したたる美しい街に変えたのも吉宗の功績である。
また、財政改革の一環として増税を断行しているが、 同時に貨幣改鋳による金融緩和政策をとったので反発を抑えることができた。この改革は幕府財政の安定化には大いに役立ったが、幕藩体制の根幹である米本位の経済体制からはついに脱却できず、治世の後期まで米価対策に悩み続けた吉宗は「米将軍」とあだ名されるようになってしまった。
ただ「幕府財政の立て直し」には間違いなく有能な人物だったが、増税と質素倹約により文化の振興は大きく冷え込んだため、日本全体の経済に視点をやると一概にプラスの評価ばかりを下していいものか疑問視する声もある。また、なまじ彼が成功したがために享保の改革が「唯一無二のご政道」として後世でも絶対視されてしまい、貨幣経済への切り替えが遅れてしまった側面もある。後の寛政の改革・天保の改革は基本的には享保の改革の焼き直しであった。重商主義を唱えた田沼意次すら、「倹約」と「殖産興業」の2本柱で財政立て直しを狙うという基本線は吉宗と何ら変わらないものだった(目的を「財政立て直し」に置く限りは、政策の方向性および、上述した他の幕臣達の意向である「唯一無二のご政道」も考えた政治的妥協としてある程度仕方ない面はあるが)。