インディカーとしての発案
プロジェクトが発足したのは2009年。当時2012年用のマシンの案を募集していたインディカー・シリーズに、強豪チップ・ガナッシ・レーシングの援助を得てマシン案を提出した事で存在が明らかになる。
翌年、2010年2月にはシカゴオートショーにてプロトタイプが披露されたが、主催団体のIndyCarは2012年用のマシンをダラーラが提出した案で製作する事を決定したため、結局インディカー・シリーズのマシンには採用されなかった。
ル・マン24時間参戦
インディカー・プロジェクトは成功しなかったが、新たにオール・アメリカン・レーサーズ、2010年までLMP1でアキュラ・ARX-02を走らせていたハイクロフト・レーシング、IMSAのオーナーであるドン・パノスと共同プロジェクト「プロジェクト56」を始動し、再スタートを切った。これはル・マン24時間レースで2012年から始まった“ガレージ56”(新技術をプロモートするために新しく設置された出場枠)での参戦を目指すものだった。
また日産自動車がこのプロジェクトに参加し、ジューク用の1.6リッター直列4気筒直噴ターボエンジン(300馬力)の供給や、フォーミュラニッポン/SUPERGT王者の本山哲の派遣を行った。
2012年3月1日に、バトンウィロー・レースウェイ・パークで初走行を行った。
そして迎えた本番では、LMP1とLMP2の中間程度のラップタイムで走行。しかし本山のドライブ中に、トヨタ・TS030 HYBRIDで初参戦していた中嶋一貴にぶつけられてリタイアとなった(中嶋は前の周回遅れを躱すのに集中していて、デルタウィングの接近に気づいていなかった)。
独特な車体形状
設計は元ローラ・カーズの設計士である、デルタウイング・レーシング・カーズのベン・ボールビーが担当。彼は後にZEOD RC、そしてGT-R LM NISMOも担当することとなる。
少し見ただけでは三輪車と見間違うような、三角形(デルタ)の斬新な車体形状が特徴的である。これは空気抵抗を低減し、ドライバーの安全を確保するためのデザインであるという。一般のプロトタイプレーシングカーに装着されているような前後のウイングは無く、替わりにリアに直線走行安定用の垂直フィンを装備している。ダウンフォースは車体下面のベンチュリ構造で生み出される。このようなボディデザインとなった結果、車体前部のトレッドは後部と比べて約3分の1と極めて狭くなっている。
重量配分が約3:7と極端に後ろ寄りになっており、ほとんどのコーナリングフォースが後輪で発生する。ミシュランが供給する特製フロントタイヤは幅が10cmしかない。設計上フロントが1輪でも問題なく曲がることができるが、パンクした時の安全性を考慮して2輪にしている。
アストンマーティン・AMR-ONEのモノコックを流用しており、車両重量はル・マン参戦時でわずか475kgであった。
黒くて低く他車からは見づらいフォルムは危険だと言われており、実際にこのボディでは前述のル・マン決勝と同年のプチ・ル・マン予選の2度、大きな接触に見舞われている。
IMSAに転戦
日産は2012年ル・マン限りでプロジェクトから撤退し、デルタウィングを白いクローズドボディにしたような形状のハイブリッドカーのZEOD RCを開発。翌2013年に再びル・マンへ挑戦するが、このとき知的財産権を巡ってパノスと訴訟を繰り広げる羽目になった。
本家デルタウィングは北米スポーツカーのIMSA(アメリカンル・マン→USCC)に参戦する。2012年プチ・ル・マン(ロード・アトランタの10時間レース)で総合5位で初完走を果たす。
2013年以降は専用設計のモノコックと共にクローズドボディに変えられた(色は年によって異なる)。またエンジンもマツダ製の2.0リッター直列4気筒ターボエンジンに切り替えられた。
その後DPi規定導入前の2016年まで同シリーズに参戦。2014年のプチ・ル・マンで4位に入ったのが最高成績となった。
日本でデルタウィングというと日本人ドライバーや日本メーカーが深く関わった初期のオープンボディの印象が強いが、実際にはクローズドボディで走っていた期間の方が圧倒的に長かった。