概要
F1のモナコGP、アメリカンモータースポーツのインディ500と並ぶ『世界三大レース』の一つ。このレースが初開催されたのは1923年であり、2023年で大会100周年を迎えた、歴史と伝統のある耐久レースである。
フランスのル・マン市に位置しているサルト・サーキットで(コロナや戦争などの例外が無ければ)毎年6月で開催されている。
大会運営はFIA(国際自動車連盟)とACO(フランス西部自動車クラブ)が共同で行っている。
1950年代からFIAの世界選手権に組み込まれたり外れたりを繰り返しており、現在はWEC(世界耐久選手権)の一戦。スケジュール的にもWECの真ん中に位置し「シリーズのハイライト」にもなっている。
耐久レースの代名詞であり、「ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ」「アジアン・ル・マン・シリーズ」「プチル・マン」など、ル・マンの名を戴くレースが世界各地で行われている。
他の三大レースであるF1のモナコグランプリ、インディカーのインディ500がともにフォーミュラカーによる最速ドライバー決定戦なのに対し、ル・マンは耐久レース専用に設計されたプロトタイプスポーツカーと、市販スーパーカーをベースに設計されたGTカーという異なる規格のマシンが混走し、ドライバーも複数人が交代しながら行うのが特徴である。そのためドライバーよりもチームの戦いという色が強い。
また各マシンの規格に合わせてクラスが分かれており、「クラス優勝」という概念が存在するのも、他の2イベントには無い点である。中にはプライベーターやアマチュアドライバー向けと公言されるクラスも設定されており、門戸は非常に広く開かれている。
さらに運営が許可すればデルタウイングやZEOD RC、障害者向けのレーシングカー、さらにはハイブリッド仕様のNASCARマシンまで、特殊な車両も参戦できる「ガレージ56」枠も見どころの一つとなっている。
年によっては参戦メーカー数に大きな幅があり、ワークスチームが1社のみかあるいは不在となってしまったことも一度や二度ではない。しかし数々の名車たちが繰り広げてきたドラマは人々の興味と尊敬を集めてやまず、それゆえ1世紀に渡って続けられるビッグイベントとなっているのである。
歴史
戦前は多数の大小様々な規模の自動車メーカーが参戦したが、中でもベントレー、アルファロメオが強さを示し、それぞれが4連覇を達成した。またプジョーなどの地元・フランス車メーカーを中心に前輪駆動車が小排気量クラスで優れた成績を収めていたこともあった。
第二次大戦中はフランスが戦場となっていたため、開催されなかった。
戦後しばらくは産業の荒廃でベースとなる市販車が少なかったことから、「市販を前提とした試作車(=プロトタイプ)」の参戦も認可された。その結果、メルセデス・300SLを始めとする、葉巻型F1マシンを市販車のフォルムに落とし込んだような、先鋭化した設計の「プロトタイプ」が次々に登場した。
しかし1955年、ホームストレート上で突如減速したジャガーに接触したメルセデスが観客席へ突っ込み、80名近くを巻き込む大惨事を起こしてしまう。これによりメルセデスはモータースポーツ自体から長らく撤退(1985年にザウバーに非公式にエンジン供給する形で関与し始め、本格的にレース活動を再開するのは1988年から)する事になり、欧州各地においてもモータースポーツを縮小あるいは禁止する地域が出るなど、様々な所で大きな影響があった。
1950年代末〜1960年代前半は他に有力なマシンがいなかったこともあるものの、フェラーリが無敵の強さを誇り、多数のプライベーターたちとも合わせて怒涛の6連覇を達成した。しかしその途中から、当時は大衆車メーカーと思われていたフォードが新たに開発したマシン・GT40でフェラーリに勝負を挑む。1966年のル・マンでフォードは遂にフェラーリを打ち破り初優勝、翌年には連覇を達成した。事の詳細については映画化された『フォードvsフェラーリ』で詳しく見ることができる。この頃からマシンの高速化が加速し、最高速度は300kmに到達。またレース戦略も「ゆっくり確実に走る」から、「そこそこのレーススピードで競り合って勝つ」へ変化した。
同時期にはIMSA・Can-Amといった北米のスポーツカーレースシリーズも繁栄しており、両者の間で交流が生まれるようになった。
なお、この頃は世界選手権とル・マンは一枚岩ではなく、車両規定を巡ってしばし対立した。
1968年からはプロトタイプ規定の最大排気量が3.0Lに制限されたため、大排気量のマシンで参戦していたフェラーリとフォードはワークス参戦から撤退。それに代わってマトラ、ルノー(アルピーヌ)、ポルシェなど、これまでのルマンでは中小排気量クラスに参戦していたメーカーが総合優勝を目指して参戦した。しかし実質的にはプロトタイプと同じマシンを、最大排気量5.0Lのスポーツカー規定車両の条件となる最低生産台数25台をクリアし、従来と同じ排気量のまま参戦するという力技が発見される。この手法を用いてフォードがさらにもう2連覇(計4連覇)を達成するとポルシェもこの流れに追随、1970年に917(に改良を加えた917K)で初のルマン総合優勝を達成した。さらに翌年の1971年には、40年に渡って塗り替えられない走行記録(5,335km)と、20年近くも破られない最高速記録396km/h、そして現在でも破られていないコースレコード(3分13秒9)を達成するなど、現在のコースレイアウトとの違いを差し引いても驚異的な性能を示した。
当然、こんなやり方はコスト高騰の原因になるので、スポーツカーの最大排気量も3.0Lまでに制限され、これらのマシンは全て締め出され、ほぼライバルが不在の中でマトラが3連覇を達成する。
なお日本でヒットした映画『栄光のル・マン』もこの頃、本番で撮影車両を参戦させながら製作されている。そしてこの人気に触発されたシグマ・オートモーティブ(現SARD)が1973年にデビューしたのを皮切りに、マツダスピード、童夢、トムスなどの日本のプライベーターがル・マンへ参戦するようになった。
1975年にはかつてルマンで3連覇を果たしたマトラも市販車事業に注力するため撤退し、ワークスチームが完全に不在となった。翌年から大幅なレギュレーションの変更があり、グループ6(スポーツプロトタイプ)とグループ5(シルエットフォーミュラ)が参戦可能となった。ル・マンではグループ6が主役だったが、グループ5もグループ6車両がトラブルで全滅した時に一度だけ総合優勝を達成している。
最初はルノーとポルシェが、当時としては真新しかったターボエンジンで激しく争っていたが、F1に軸足を移したがっていたルノーは1978年に総合優勝を達成すると早々にルマンから撤退したため、グループ6でも5でもポルシェ一強となった。これに当時F1で無敵を誇っていたコスワース製DFVエンジンのユーザーを中心とするプライベーターが対抗し、1980年にジャン・ロンドーがカーデザイナー兼ドライバーとして優勝するという快挙を達成している。この年でのロンドー/ジャン=ピエール・ジョッソー組の優勝は自らの名を冠したレース車両でル・マンを制した唯一の事例となっている。またフォードやポルシェなどの有名メーカーばかりが勝利してきたル・マン24時間においても、小規模のコンストラクターが勝利した数少ない例でもある。
1980年代は「使える燃料の量以外は全て自由」と形容される『グループC』が施行された。オイルショックの影響が明けて、本格的なレース活動の場を求めていたジャガー、メルセデス、ランチア、マツダ、トヨタ、日産、アストンマーチン、プジョーなど史上稀に見る多数のワークスチームが参入した。
ポルシェは徹底的にこの規則に最適化させたマシン、956と962Cを開発。しかもこれらをヨーストやクレマーなどの有力プライベーターに手厚いサポートと共に大量供給したため、むしろポルシェの独走態勢は強化され、1987年にル・マン7連覇を達成するまでルマンにおけるポルシェ王朝は続いた。しかし1988年のルマンではジャガーが遂にポルシェを破り、31年ぶりとなるル・マン制覇を果たした。
1990年代に入る直前、FISAはTV放送に適したレースフォーマットで成功を収めたF1に倣い、F1とグループCエンジン規格を統一することを表明。ル・マン以外の選手権レースを全てスプリントレース化した。しかし、従来の規定とは逆に燃料使い放題となったことで根本的な設計の見直しと多額の投資が必要となってしまう上、世界的な経済不況も重なってしまった事でワークスチームの撤退が相次ぎ、最終的にはトヨタとプジョーの2社だけになってしまった。
なおマツダ・787Bがその混乱の間隙を縫う形で、1991年の移行期間に日本メーカー初となるル・マン初制覇を達成した。現在でもル・マンでロータリーエンジン搭載車が総合優勝した例としてはこの年のマツダが唯一。
一転して不人気になってしまったル・マンをどうにか立て直そうとFIAが様々な手を尽くした90年代は、いくつかの車両規定が混在し入れ替わる混迷の時代を迎える。
1994年のみ『LMP1』の名称でグループCと、1台だけでも公道仕様車を製作すれば公認を取得できる『LM-GT1』規定の混走となる。そして95年からはグループCは参戦不可となる代わり、IMSAのWSC規定(後にLMP)とGT1の混走となった。
これによりWSCでポルシェ・フェラーリ・マツダ、GT1でポルシェ・マクラーレン・日産・メルセデス・ホンダ・トヨタ、LMPでアウディ・BMWといった多数のメーカーが復帰または新規参入するが、ポルシェやその配下のプライベーターたちがWSCでもGT1でも規則の穴を巧みに突き続けたため、実質的にはポルシェ一強状態のままであった。トヨタ・日産もこれに倣ったマシン(TS020とR390)を開発し、日本人トリオによる表彰台や別規定ゆえのクラス優勝はあったものの、マシントラブル等の要素もあって、総合優勝だけはどうしても手が届かなかった。
なお1995年に、上野クリニックの佐山氏がスポンサーして追加で走らせたマクラーレン・F1 GTRをドライブした関谷正徳が、日本人ドライバー初のル・マン総合優勝を成し遂げている。
FIAは形骸化したGT1を廃止し、最高峰カテゴリをプロトタイプのみとする。しかし2000年代になった途端に、今度は各々の事由でワークスチームが一斉に撤退。最初のうちはキャデラックやクライスラーといった米国メーカーが参入するが、結局はベントレーとアウディという同一(フォルクスワーゲン)グループの2社による寡占状態に陥り、さらに2003年はベントレー、2004年~2006年はアウディと、それぞれ1社のみとなってしまう。なお2004年にチーム郷のアウディ・R8で荒聖治が日本人2人目の、そして日本チームの日本人ドライバーとしては初のル・マン制覇を達成した。日本のプライベーターチームによる総合優勝はこの年が唯一である。
幸い、当時はエコ技術として注目を集めていたディーゼル技術に興味を持っていたプジョーが2007年から参戦したため、以降はアウディvsプジョーの大排気量ディーゼルターボ対決が繰り広げられた。そして2009年にはプジョーがアウディを破り、1993年以来のル・マン総合優勝を果たした。(ちなみに非ドイツメーカーのエンジンを搭載したレース車両のル・マン制覇も1993年以来である。そして93年のル・マンを勝っていたのもプジョーだった)
2012年から電動技術と4WD技術を掛け合わせたLMP1ハイブリッド規則が施行される。自由かつハイレベルな技術で1000馬力という、グループC以来ともいえるこのモンスターマシン規定は、アウディ・トヨタ・ポルシェが三つ巴の戦いを繰り広げ、全盛期を迎えた。しかし2015年にフォルクスワーゲングループによる『ディーゼルゲート』により暗雲が立ち込め、同グループに所属していたアウディとポルシェが2016~2017年にかけて撤退。わずか5年ほどでLMP1-H規定は事実上の終わりを迎えたが、新規定の決定が大幅に遅れたため、2020年まで従来の規定を継続した。
その結果、またしてもワークス1社のみとなってしまったル・マンで、トヨタは"勝利"を重ねざるを得なくなる。中嶋一貴、小林可夢偉、平川亮がこれにより日本人ウィナーとして歴史に名を残すこととなった。一貴は2014年に日本人初のポールポジションを、可夢偉は2017年に現レイアウトでのコースレコードをマークしている。
2021年からはLMハイパーカー(LMH)、さらには2023年から北米IMSAとの提携でLMDhの両規定が施行された。これによりトヨタ、フェラーリ、プジョーがLMH規定、キャデラック、ポルシェ、アルピーヌ、BMW、ランボルギーニがLMDh規定のマシンを開発し、2024年は実に9メーカーが最高峰クラスに轡を並べた。
またLMHではグリッケンハウス、ヴァンヴォール(バイコレス)、それにイソッタ・フラスキーニといった小規模メーカーも続々参入する(グリッケンハウスやイソッタ・フラスキーニは後に撤退)など、かつてのグループCやGT1黄金時代以上の活況を呈し始めている。
また2010年代以降からル・マンで独自に施行してきたGT規定の『LM-GTE』が終焉を迎え、2024年大会から既存のGT3をベースとする新規定『LM-GT3』へと移行。こちらも9メーカーがル・マンで戦いを繰り広げている。
小ネタ
参戦資格
前述した通り、大戦期と黎明期のフランス自動車工業会のストライキで中止した以外は毎年のように開催されていることから、参加することだけでも非常に名誉なル・マン24時間レース。
世界各国の自動車メーカーやレーシングチームからエントリーが殺到することから、近年はACOの車両既定を採用する以下のレースから招待状が送られることとなっている。
・WECにフル参戦しているチーム(このうち、少なくともル・マン24時の前戦で出走しているチームに限る)
・ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ(ELMS)、アジアン・ル・マン・シリーズ(ALMS)の上位入賞チーム
・北米開催のIMSA(国際モータースポーツ協会)主催のIMSA スポーツカー選手権の上位入賞チーム
余談程度に「ガレージ56」も招待枠の一つだが、これは元々サルト・サーキットのガレージが55台分しかなかったことに起因する(現在はピット施設の改修により59台分のガレージが設けられている)。
ドライバー交代無しで24時間に挑戦
現在は安全上の理由で連続運転時間の規制(各ドライバーの走行時間が「連続する6時間の間に4時間以内となること。)があるため1人のドライバーで24時間走り切ることは不可能だが、このような明確な規定がなかった当時、ドライバーが1人のチームでもエントリーすることができた。
ピエール・ルヴェーは1952年にタルボ=ラーゴで出走し、23時間に渡ってステアリングを握りトップを走り続けたが、疲労のためギアを入れ間違えてエンジンを壊しリタイアとなった。(ちなみに後述する1955年のル・マンで発生した大事故時に走行していたメルセデスのドライバーは彼である)
エディ・ホールは1950年にベントレーで挑み(コ・ドライバーを乗せていたが、なぜか本人はこのコ・ドライバーと運転を代わることを拒んで24時間を自身のドライブのみで走行)平均時速130キロ以上で236周を記録し8位でゴールし、これがドライバー1名のみで完走した史上唯一の成功例となっている。
現在は、前述したように危険防止のためドライバー交代が義務化されているため、最低でも2人以上のドライバー登録が無いとエントリーすらできなくなっている。
ル・マン式スタート
黎明期はホームストレート上のピット側にマシンを斜めに並べ、反対側にドライバーが並び、スタートの合図と同時にドライバーがダッシュでマシンに乗り込み、エンジンを掛けてスタートしていく「ル・マン式スタート」が用いられた。
しかしシートベルトをしないままスタートするという危険な行為が後を絶たなかったため、これに抗議したJWオートモーティヴ・エンジニアリング(フォード)で参戦していたドライバーのジャッキー・イクスは、1969年にゆっくり歩いてしっかりシートベルトを締めて最後尾からスタートし、しかも総合優勝まで果たしたというまるでおとぎ話のような実話がある。
1971年にル・マン式スタートは廃止されたが、近年のWECではこれを模してダミーグリッドへ整列する代わりに、ル・マン式スタートと同じ位置にマシンを配列している。コレに倣う形でシリーズのスターティンググリッドは全てル・マン式を模したものとなっている。
二輪の耐久レースではシートベルトの必要がないため今でも使われており、日本でも鈴鹿8耐で見ることができる。
ちなみに対義語(?)は「デイトナ・フィニッシュ」。これは1-2-3位など上位独占状態の自社のマシンをこれ見よがしに並べて勝利のチェッカーフラッグを受けることである。
1967年に開催されたデイトナ24時間でフェラーリチームが行ったのがその始まりであるが、実は前年のル・マンでフォードがやったことをそのまんま仕返ししただけだった。つまり本来なら「ル・マン・フィニッシュ」でもおかしくないのだが、なぜか「デイトナ・フィニッシュ」が定着している。
1991年のル・マンでマツダが総合優勝した際にも、残っていた3台をペース調整によって揃えてデイトナフィニッシュさせようという意見が出たが、チーム監督の大橋孝至はその要求を拒否。これはチームに緊張感を保たせ、想定外のトラブルを回避するための決断であったが、マツダのコンサルタントとしてこの年のル・マンに参加していたジャッキー・イクスもそれに同調し「これまで何度も優勝しているならそれもいいだろう。6位くらいの成績で満足するならそれもいい。しかし、優勝を狙うならつまらないことをするな」と初優勝に向けて集中すべきだとメンバーを諌めたため実現しなかった。
2023年のル・マン100周年記念大会では、同年からWECに参戦しているキャデラックレーシング(チームオペレーションはIMSAでも同車を参戦させているチップ・ガナッシ・レーシングが担当)の2台とIMSA招待枠で出場していたアクション・エクスプレス・レーシングの1台からなるキャデラック・V-Series.Rの3台が、周回数こそ揃わないものの、横一列でサルト・サーキットのコントロールラインをくぐる「デイトナ・フィニッシュ」を披露した。
サルト名物・ユノディエール
第5コーナーから6kmにも渡って伸びるストレート、「ユノディエール」はサルト・サーキット最大の特徴である。普段は公道として利用されているこの区間では、1980年代まで熱い最高速バトルが繰り広げられていた。
プジョー有志によるプライベーターのセカテバは、優勝を諦めて最高速記録だけを求めたマシンを開発し、1988年に405km/h(!)という記録を刻んでいる。
しかし、レース車両が年々進化していくにつれて、次第にサーキットの安全対策も急務になりつつあった。そこでFISAが直線距離を2キロメートル以下に抑えることを厳命(合わせて指示に従わない場合は国際格式のレースとしての開催を認めないことも通達)したため、1990年にシケイン、つまり減速のための超低速コーナーが2つ設けられ、一つの時代は終わりを迎えた。
とはいえ、6kmのストレートが3分割、つまり常設のサーキットとしては世界最長とされる富士スピードウェイのホームストレート(1.5km)のおよそ3つ分のストレートが残っているわけなので、現代でもローダウンフォース傾向でマシンセッティングが組まれるのが一般的である。
そのため、シケインありの状態でもストレートでは300km/h超えはザラであり、例として1999年にはトヨタGT-One TS-020が351km/hを記録している。
ちなみに現レイアウトでの最速タイム記録は、2017年に小林可夢偉がトヨタ・TS050 HYBRIDで叩き出した3分14秒791。これはグループC時代にジャッキー・イクス(ポルシェ・956)が叩き出したタイムをコンマ01秒上回るタイムで、時代の経過による技術進歩の凄まじさを教えてくれる。
空飛ぶメルセデス
ル・マンの歴史の中でメルセデスは計3台(回数としては2度跳んでいる車があるため合計では4回)宙を舞っている。
1度目は前項で述べた、1955年のホームストレート上での大事故。これは事情を知っていれば、メルセデスに責を問うのは酷な事件であった。
2、3、4度目は1999年。メルセデスはGT1規定のCLRを3台エントリーさせるが、マーク・ウェバー(余談だが同じマシン・同じレースイベントで2度も宙に舞ったのは彼だけである)がドライブする4号車がミュルサンヌ手前で予選中と決勝前のウォームアップ走行中の2回とチームメイトのピーター・ダンブレックがドライブする5号車が決勝中に1回インディアナポリスコーナー手前の直線区間で突如マシンがフロント部分からふわっと浮いて「離陸」するという大事故が発生した。これは姿勢変化に敏感すぎる過度の低ドラックコンセプトの空力設計とサードダンパーを装備出来ず、ピッチングを抑えきれないサスペンション構造など、風洞実験室以外ではまともに機能せず、実戦には向かない(フロントピッチ角が2.4°とほんの僅かにピッチングしただけでフロントダウンフォースを完全に失うレースカーとしてはほとんど欠陥レベルの)車体構造とアップダウンが激しく路面の荒れた公道を含むコースの要素が組み合わさってしまった事でポーポイズ現象が起こりやすくなっていたのが原因であった。
いずれもマシンの全高の何倍もの高さに舞い上げられた後、一気に地面に叩きつけられる非常に危険な事態になったにもかかわらず 奇跡的に両ドライバーとも軽傷で済み、他車やコースマーシャルを巻き込むことも無く一人の死者も出なかったものの、メルセデスはその危険性を鑑みて、残る6号車をピットに呼び戻しリタイアさせた。4号車による2度の事故で事故の再発が予想出来たにもかかわらず、小さなカナードのみの追加という小手先の対策だけで事故前の状況とほとんど変わっていない車両で「絶対に他車のスリップストリームに入るな」と公道混合でしかも走行台数の多いルマンでは事実上不可能な走行をドライバーに命じ、レース出走を強行した監督のノルベルト・ハウグは各方面から非難を受けることになる。
この決勝レースでの事故の様子はテレビ中継などを介して報じられ、世界中にその醜態を晒すこととなったことからメルセデス製マシン(シャシー)はこの年以降、ル・マンには出場していない。ちなみにウェバーは、メルセデスでの大事故から11年後の2010年F1ヨーロッパGP(バレンシア)でも宙を舞っている。
今回はCLRの浮上事故のみに触れているが、実はポルシェ・911 GT1/98が1998年のIMSA GT選手権の第1戦「プチ・ル・マン」ことロード・アトランタで、ウィリアムズとBMWが共同開発したBMW・V12 LMRも、2000年に前述の911と同じく「プチ・ル・マン」で立て続けに車体の浮上事故を起こしており、同年代のマシンに共通して存在していた技術的な課題であることが判明した。
そのためコース・車体両面での対策が検討され、その後はサルト・サーキットでは事故が2度にわたって発生したミュルサンヌコーナー手前の丘を8 mほどの高さに削り、勾配を抑制する等の対策工事を行われ、車体についてもフロントオーバーハング下部への空気滞留の抑制と空気溜の排出のためフロントタイヤハウス上部に開口部を設け、前後オーバーハングのサイズを制限するレギュレーションの改訂も行われ、それ以降は車体の欠陥に起因する浮上事故は起きなくなった。
余談だが、99年のルマンに出場していた中で唯一事故を免れた6号車は、現在でも実走可能な状態で現存はしているものの、車体の浮上による事故が起きる可能性を考慮してレーシングスピードでの走行は厳禁である事が言われているそうだ。
関連項目
モータースポーツ 耐久レース グループC プロトタイプ オレカ シェルビー NSX スープラ スカイラインGT-R 787B
七緒はるひ…女性声優。旧芸名は寺田はるひ。父親は「ミスタールマン」こと寺田陽次郎。
Pixiv百科事典に記事がある、過去参戦したドライバー
ミハエル・シューマッハ リカルド・パトレーゼ ジャン・アレジ ロバート・クビサ ニック・ハイドフェルド ナイジェル・マンセル