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土屋圭市

つちやけいいち

元レーシングドライバー(画像右の人物)。現在はARTAのエグゼクティブ・アドバイザーおよび、本田技研工業株式会社(ホンダ)の開発ドライバーとして活動中。
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長野県東部町(現・東御市)出身。元走り屋でありながらプロのレーシングドライバーとして大成した、古き良き時代のレーサーの一人である。

ドリフト走法を得意としており、さらにドリフトを審査基準を持つ「競技」として世界で初めて成立させた功績から、ドリフトキング( 略してドリキン )の異名を持つ。


またメディア活動にも積極的で、『頭文字D』の読者を筆頭に、自動車ファンからカルト的人気を誇る。

タレント活動をするレーシングドライバーの元祖とされることもある。


概要編集

1956年、前述の通り長野県東部町に生まれる。

16歳の頃、友達と一緒に原付で8時間半かけて富士スピードウェイに遠征。日産のピットで高橋国光にサインをもらうことに成功し、その人柄に惚れ込んでプロレーサーになる決意を固めた。


青年時代は家業の金型工場などで働くうち、その配達で荷重移動を覚えたといわれる。それが高じて走り屋としてを攻めることに目覚める(当時はまだその点で交通法規でも大目に見られていた事情もある)。また、いわゆる共同危険型暴走族と一緒にされないように、一緒に走り屋として走る仲間たちの名簿を地元警察に提出し「一般車に迷惑をかけるような走りをする者がこの中に居たら取り締まって欲しい」と、地元警察の許しを得た上で走り屋として活動していた。前述の通り、おおらかな時代であったからこそ許された行為であり、現代では絶対に許される行為ではない。

この頃は、解体屋でスクラップにされるような車を極めて安価で購入し、故障したりぶつけたりして壊れるまで使い潰してはまた解体屋に行く…ということを繰り返して腕を磨いていた。このことが、どのような車でもすぐに素性を掴んで乗りこなす腕前を身につけることにつながっている。

ところが、碓氷峠のカーブを100㎞/hオーバーで回ろうとしてガードレールを突き破って転落する事故を起こし、車は廃車、本人も片目の視力が大きく低下する怪我を負うとともに「モータースポーツにはルールと安全性が必要」という考えに目覚め、プロレーサーへの道を志したという。


また、歌手も目指していたらしく、ヤマハポピュラーソングコンテスト( ヤマハ音楽振興会の主催で1969年から1986年まで行われたコンテスト)にエントリーするもレベルの高さに驚き、こちらは断念している。


レーサー時代編集

1977年にレーサーとしてデビューし、ヨコハマタイヤの専属レーサーとなった。富士フレッシュマンレースにて1984年にADVANのロゴをつけたスプリンタートレノAE86クラスで全勝してシリーズチャンピオンを獲得し、さらに格上のスカイラインをも追い回したことから有名になり、全日本ツーリングカー選手権(JTC)へステップアップした。


ただし順風満帆というわけではなく昭和61年以降に発売されたビデオ「ザ・峠」および「ザ・峠2」に出演したところ、「暴走行為を煽る」などと問題になりビデオは発売禁止処分となり、JAFよりレーサーとしてのライセンスを剥奪されそうになる、という危機もあった(ただし、こちらはモータースポーツ雑誌『Option』創始者かつ、土屋の駆け出し時代からの師匠でもある稲田大二郎氏をはじめとする自動車業界関係者のとりなしもあって、剥奪は回避された)。


平成元年から平成4年まで全日本F3選手権にも参戦しているが、ドリフトが全く使えないこともあり、あまり芳しい成績は残せていないが悪天候には強かったとされる。

別のレースの話にはなるが、FC3SRX-7で参戦していたJSS(ジャパン・スーパースポーツ・セダンレース)の1991年富士スピードウェイでのレースではウェットコンディションでライバル車両が次々とスピンしリタイアする中で得意のドリフト走行を駆使しダントツのトップでのゴールを飾っている。


結局全日本格の国内レースでチャンピオンを獲得することはできなかったが、1994年から2000年まで、世界三大レースの一つであるル・マン24時間レースに参戦し、1995年には敬愛する高橋国光率いる「チーム国光」から出場。共にNSXを駆り、GT2クラス優勝を果たした。

1998年からはトヨタより参戦。片山右京鈴木利男と共にTS020を駆り、翌1999年には総合2位(LM-GTPクラス1位)を勝ち取っている。

走り屋出身の土屋は夜間走行や悪天候に圧倒的に強く、ライトが故障した時もマシンを傷つけることなく走り切った。トヨタから招致されたのもこれが理由であり、F1経験のある片山と鈴木を支える形で夜間のスティントを担当した。


昭和62年に創刊されたビデオマガジン『Hot Version』(現在は動画配信に移行)の司会を現在まで務め、自動車評論やドライビングの手本を見せるほか、平成2年から20年近くラジオでもパーソナリティを務めるなどで、そのスキルを買われJTCCやル・マン参戦時にはマシンに無線機を積み、決勝中に視聴者に解説しながらレースをする、という常人離れしたこともやってのけている。


2000年にレーシック手術(角膜にレーザーを当て屈折率を変えることにより近視を矯正する手術)を受けるも、マシンの進化に体がついていかなくなったと感じたことや、レースの環境の変化などを受け、2003年に現役を引退する。


引退後編集

それまで所属していたARTAのチーム運営にかかわり、監督として活躍した。


引退前から立ち上げていた『全日本プロドリフト選手権』(D1グランプリ)を推し進めていたが、運営との亀裂が生まれたことによりこの運営会社の取締役を辞任、新たな競技団体である株式会社ドリフトエンタープライズおよび『ドリフトマッスル』を開始(後にD1と統合)。


また、ARTA時代から関わりのあったホンダの開発ドライバーとしても活動しており、ホンダ純正のカスタマイズパーツブランド「Modulo(モデューロ)」のパーツ・車両開発に携わっている。


その他、ラジオのパーソナリティほか、芸能活動も引き続き行っている。2021年には個人のYouTubeチャンネルを開設したほか、車関係のYouTuberとのコラボ企画にも出演している。


『頭文字D』との関わり編集

1995年に連載開始した漫画「頭文字D」を当時自分がパーソナリティを務めていたラジオ『サウンドコックピット』にて絶賛したことにより、その後1997年に雑誌の対談にて作者しげの秀一氏との交流が始まる。


1998年に放送開始したアニメ版においてバトルシーンの監修(この監修はしげのの推薦もあった)を務め、第一期(First Stage)およびドラマCD「ドリキン青春グラフィティー」では声優として特別出演

TVアニメ版での土屋は主人公・藤原拓海の父である藤原文太の旧友という設定であり、TVアニメ版本編では拓海vs高橋涼介のバトルを聞き付け文太に電話するという役どころで声のみ出演。

ドラマCD「ドリキン青春グラフィティー」では、文太の紹介で土屋の元に拓海と武内樹が訪れ、土屋の走り屋時代の話を回想しながら語るというものだが、内容は半ばノンフィクションであったりする。

(なお、回想内の土屋の声は上田祐司が演じている)

その他、TVアニメ版では最終作『頭文字D Final Stage』最終話のエンディングに彼らしきプロドライバーが拓海の前に登場したほか、北米トヨタのGR86の頭文字DコラボコマーシャルにてGR86(左ハンドル)のステアリングを握り拓海と直接対決した。


出演声優との交流では三木眞一郎岩田光央子安武人と同乗走行をしたことがあり、とりわけ三木とは親交が深く、ステアリングを授けるほか、アーケードゲーム『頭文字D_ARCADE_STAGE』シリーズで対決することもあった。


トヨタ・AE86との関わり編集

現役時代に搭乗していたトヨタ・AE86の出来を「ドライバーを育ててくれる車」として絶賛しており、自身もAE86トレノを愛車の一つとして長く乗り続けている。この車両は自身がパーソナリティを務める「Hot Version」でも多用され、同企画でボディのリフレッシュと補強が施されている。当初は「峠最強伝説」の200クラスのラスボスとして後方からカメラカーとして追走していたが、進化し続けるチューニングカーには遠く及ばず、先行車のルームミラーから豆粒のように見えるほど置いて行かれたことから「マメ号」というあだ名をつけられてしまった(当時本人は「勝負になんない」と漏らしている)。

その後、2012年にチューニングショップ「テックアート」によるチューニングが施され、7A-G仕様、1800CCエンジンとなり、最大出力は約215psとなり現代でも通用するような性能を得ている。2020年にはついにエアコンも設置された。(youtubeチャンネル10万人登録時の公約でもあった。)

しかし、一番弟子でもある織戸学や後輩の谷口信輝からは相変わらずバカにされており、「マメ号」という名前も彼らが名付けたものである。しかしその後は結果をきちんと残したことから若干ランクアップして「スーパーマメ号」とも呼ばれている。ナンバープレートがつけられた車検対応車であるため、公道走行も全く問題ない。

その他の愛車はホンダ・NSX-R、歴代のスカイラインGT-R、トヨタ・86など。こうしたスポーツカーを多く所有して普段から乗る理由としては、本人の嗜好もあるが、現役時代は「オフタイムでもレーシングカーに近い車に乗ることで、レーサーとしての感覚を忘れないようにするため」でもあった。


2012年に発売した86や、2021年にモデルチェンジしたGR86においても、AE86やドリフトのイメージからメーカー公式の広報に起用されている。


その他編集

  • 走り屋時代にはAE86の他、スカイライン2000GT(高橋国光の2000GT-Rに憧れて購入)、KP61スターレットにも乗っていた。
  • 広報チューン(メーカーの広報車を意図的に高性能化すること)に激怒したエピソードで有名。1995年の『ベストモータリング』にて、紆余曲折あって日産が用意したBCNR33スカイラインGT-Rとマイカーの同車でバトルした結果、明らかにマイカーが遅く、後に確認したところ日産が説明した以上にチューニングされていたことが発覚。怒り心頭の土屋は、後日鈴鹿サーキットで正真正銘ノーマルのGT-Rを使ってリベンジを行った。
  • タレントとレーサーとでキャラクターを使い分けており、コミカルな振る舞いが必要なシーンとそうでないシーンとで印象が大きく異なる。2000年代までは、『頭文字D』やドリフト関係のビデオマガジンで前者を押し出し、下ネタギャグを連発していた。近年では年齢もあり、落ち着いたキャラクターに一本化しつつある。
  • 緑色のレーシングスーツとヘルメットがトレードマークであり、サーキットを走る際は基本的にこれを着ている。本業がホンダ陣営だけにARTAモデューロのロゴが書かれているが、他メーカーの車に乗る場合もそのままである。
  • 高橋国光への尊敬を常々公言しており、息子にも「国光」と名付けたほどである。1992年のJTCからは晴れてコンビを組んだ他、お互いの引退後もSUPERGTで監督・アドバイザーという形で顔を合わせた。この師弟関係はレース界では有名で、本人たちも「国さん」「圭ちゃん」と呼び合う仲だった。その高橋が2022年3月16日に死去すると、遺族から彼が40年間愛用していたロレックス腕時計形見として譲り受けた。このロレックスは毎日磨き、神棚に置いているとのこと。

関連項目編集

レーサー ドリフト

走り屋

頭文字D - 自ら絶賛した漫画作品で、アニメ版では監修をつとめた。

藤原文太 - 『頭文字D』の登場人物で、走り屋時代からの旧友の一人の設定。

参照編集

wikipedia:同項目

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