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概要編集

日本の元F1レーサー登山家実業家

1963年5月29日生まれ。東京都新宿区出身、神奈川県相模原市育ち。


自力で資金を溜め、1983年に筑波サーキットのアマチュアレースでデビューすると、いきなりポールトゥーウイン。更にシリーズチャンピオンまで獲得した。

その勢いで翌1984年に鈴鹿サーキットに転戦。またもやシリーズチャンピオンを獲得する。

1985年にはF3にステップアップし、日本を飛び出してフランスにも転戦した。


この頃から国内外で知名度が上がり、その無謀ともいえる攻撃的な走りからカミカゼ右京」のあだ名がついた。


その後も国内を中心に活躍を続け、1992年にはレースの最高峰であるF1にステップアップ。中嶋悟鈴木亜久里に次ぐ3人目の日本人F1レーサーとなった。

最高位は5位と成績だけ見れば平凡であるが、引退する1997年までの参戦回数95回という実績は今なお日本人のトップであり、破られていない。

また、特に1994年は「カミカゼ」の名に恥じない速さを発揮し、日本人がF1で優勝する可能性を示してみせた。


F1引退後はJGTCル・マン24時間レースに参戦し、ル・マンでは1999年に土屋圭市鈴木利男と共にTS020を駆り2位を獲得した。

レース終盤でのファステストラップを連発する驚異的な挽回や、328km/hでタイヤがバーストした際の咄嗟のコントロールは観客を釘付けにし、自身もこのレースをベストレースと回顧している(後述)。


2000年代に入るとレーサーとしての活動を縮小する代わりに、登山や自転車競技に傾倒。

現在では自身のスポーツチーム「TeamUKYO」代表として活動している他、2021年の東京オリンピックでは自転車競技のスポーツマネージャーに選任された。

また、2022年には相模原市の終身名誉観光親善大使を務める。


その他編集

  • 人生でのベストレースはF1ではなく1999年のル・マンと語っている。表彰式で、優勝チームであるBMWよりも大きな歓声で迎えられたのが印象的だったとのこと。TS020の設計者であるアンドレ・デ・コルタンツも片山の走りを「身体的・精神的なタフさに感銘を受けた」と高く評価している。
  • 1994年のF1で攻めた走りができた理由は、の死去や自身がと宣告されたため。ちなみに、この時の癌は誤診だった。
  • 2009年12月、富士山を登山中に遭難したことでニュースになった。
  • 2021年からF1に参戦している角田裕毅は出身地と母校(日大三高)が同じである。

関連項目編集

F1 ル・マン レーサー


SUPERGT初音ミク痛車で知られる「グッドスマイルレーシング」に監督として関わっている。

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