概要
1947年7月1日生まれ。
元々はバイクが好きで、中学生時代には無免許でバイクを乗り回していた。
1968年には全日本モトクロス選手権でクラスチャンピオンを獲得している。
翌1969年に日産のワークスドライバーのテストに合格し、自動車レースに転向。
以降、日産の看板ドライバーとして国内レース王者の常連となり、人気と知名度を不動のものとした。特に国内トップフォーミュラ(全日本F2~フォーミュラ・ニッポン)で6回のチャンピオンという偉業は、現在も破られていない。それゆえに「日本一速い男」の異名で呼ばれた。
プロトタイプスポーツカーをドライブしてル・マン24時間などの国際レースでも活躍。1985年WEC-JAPANでは悪天候による海外勢撤退もあったが、日本人で初めて世界選手権レースでの総合優勝を記録したドライバーとなった。また1992年には長谷見昌弘、鈴木利男とともに、これまた日本人で初めてデイトナ24時間レースを制覇した。さらに欧州F2にもスポット参戦し、4位でフィニッシュしたことがある。
日本開催のF1でも1976・77年と出場し、77年には11位に入っている。
ライバルの中嶋悟が30代であっさりとドライバーから引退したのとは対照的に、なんと49歳までフォーミュラ・ニッポンに参戦し、最後の年では優勝すら記録している。フォーミュラは引退してもGTには乗り続け、2000年にGT500クラスで優勝。2002年に55歳でようやくドライバー人生に終止符を打った。
以降は日産系レーシングチーム「チームインパル」の監督に専念し、SUPERGT・スーパーフォーミュラでその姿を見せている。サーキットのイベントでは中嶋悟と「永遠のライバル対決」と銘打って、15回も旧車のフォーミュラカーでバトルをした(最終成績では中嶋が勝利)。
感情を全開に攻めまくる熱い性格から「闘将」とあだ名されるが、その熱さは神経質な性格の裏返しでもあった。レース前は緊張しすぎて食事も喉を通らず、自分で車を運転してサーキットに来れないほどであったという。
熱くなりすぎると物に当たるという昔の人ならではの悪癖もあるが、「攻めた結果のミスは責めない」というポリシーもあり、ドライバーたちからの評判は良い。
息子の一樹もレーシングドライバーとして、2度GT300チャンピオンを獲得した。なお中嶋悟の息子の名前もカズキ(一貴)であり、引退年もふたりとも2021年という縁がある。
関連項目
激走!ルーベンカイザー:1977年放映のレースアニメ。監修という立場で制作に携った。
ホシノ(GuP):『ガールズ&パンツァー』の登場人物。名前の元ネタが星野一義。
星野仙一…「星野監督」繋がり。物に当たる悪癖も同じであった。