概要
日産のCP系プロトタイプスポーツカーの中では唯一、JSPC(全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権)のみに参戦した(1993年デイトナ24時間レースにも参加予定だったが、直前にキャンセルされた)。
1992年JSPC全6戦、および1993年鈴鹿1000kmの参加した計7戦全戦で優勝(クラス優勝2戦含む)。1992年JSPCグループC1部門のドライバーズ(星野一義)・メイクスの二冠タイトルを獲得し、日産のグループCの有終の美を飾った名車である。
基本的にはデイトナ24時間を制覇した前年のR91CPの改良発展型であり、外観的な差異は大きくない。
顕著な違いはフロントフェンダー上部のエアアウトレットで、R91CPまではルーバー状だったものがR92CPでは開閉するフラップ状になったこと程度であり、前部に位置するラジエータ、同じく前部に開口するインタークーラー用ダクト、特徴的なブレーキ冷却用エアインレットなどはそのまま継承されている。
サスペンションの設計については、R91CPでは扱いやすさを狙ってレーシングカーとしては高めに設定されていたロールセンターは常識的なレベルまで下げられ、コーナリング性能は一段と向上し、タイヤへの負担も小さくなった。
エンジンは3,549ccV型8気筒ツインターボのVRH35Zを改良の上でキャリーオーバー。トランスミッションも引き続きヒューランド社製5速VGCが採用されているが、91CPと同様に内部のギアだけが使用されており、ル・マンなどで強度不足の問題が出たミッションケースは日産内製で作りなさおれている。
1992年のシリーズでは、JSPCが最後の年ということもあり、どこまで予選用エンジンの馬力を上げられるかという挑戦が行われた。それまでの予選では1000馬力程度の出力で行っていたところを、推定1200馬力以上(ベンチ測定において計りきれない馬力であった)の出力を出して予選を行った。このエンジンを用いて、旧富士スピードウェイにて予選を行った際、超ハイグリップな予選用タイヤであるQタイヤを履いた状態でも最終コーナーで4速と5速でもホイールスピンを起こし、ブラックマークをつけていたと言われている。
後年に長谷見昌弘は雑誌のインタビューで「あのパワーはF1以上。こんな加速、スピードを経験したのは世界中で僕と星野一義の2人だけだろう」と語った(JSPCは2人のドライバーがコンビを組んで行われるレースだが、予選のタイムアタックはそのコンビの内のエースドライバーが担当していた。日産はエースドライバーを23号車に星野、24号車に長谷見を充てていた)。 星野も、このエンジンのあまりにものすごいパワーに「僕はこのエンジンですぐにはタイムアタックには入れなかった」と語っている。あまりにものすごいパワーに星野、長谷見の2人とも、10~20分程の心の準備時間が必要だったほどであった。後年星野もイベントで、「予選が終わった時、やっとスピードの恐怖から開放されたと思ったよ。出来ればもう2度とあの車に乗りたくないね」と語っていた。
一説にはR92CPの予選エンジン搭載車が、旧富士スピードウェイにおいてスピードガン測定で時速400km以上を記録しているという。その事は林・水野ら複数の関係者が認めており、ほぼ事実と判断してよいだろう。もっとも、このことはドライバーへはその心理的負担を考慮して臥せられており、「最高速度は時速380kmくらい」と伝えられていたという。
また当時NISMOの監督を務めていた水野和敏によれば、決勝での設定はドライバビリティを重視し(主に富士のBコーナーの立ち上がりでドライバーが安心してアクセルを踏めるようにすることが目的だったという)、エンジン出力は発表当初の900馬力より少ない状態にし、R91CPで約600馬力、R92CPでは約720馬力程度に抑えられていたとのことである。ドライバーの星野は「僕らのエンジンは、本当は5,000cc位あるんじゃないか」と、その核心に気づいていたようだ。
燃費規定のグループCカー(カテゴリー2)として、日本メーカーによって製造されたマシンの中では事実上最強であったが、このカテゴリーは国際的には2年前(1990年)に事実上終了しており、その性能に見合った殊勲を十分に得ることはできなかった。
グランツーリスモ4で初収録され、グランツーリスモ5と6にも登場し、GTSPORTには2018年5月末のアップデートで復活収録された。