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小少将の編集履歴

2013-03-04 17:27:02 バージョン

小少将

こしょうしょう

小少将(生年不詳 - 天正元年8月26日(1573年9月22日)?)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。越前国の大名朝倉義景の側室。

生涯

朝倉氏の家臣斎藤兵部少輔の娘。兄弟に斎藤新三郎がいる。『朝倉始末記』などの軍記物では「小少将」「小将」「少将」と名前がまちまちであるが、一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉義景館外濠から出土された付札木簡には「少将」「少しやう」と書かれていることから、本名は「少将」が正しいと考えられている。また、諏訪館に住んだことから「諏訪殿」とも呼ばれる。

義景の嫡男阿君丸が永禄11年(1568年)6月25日に死亡(毒殺の疑いがある)した後、側室になったと伝えられ、元亀元年(1570年)に愛王丸を生んだ。天正元年(1573年)8月、義景が刀根坂の戦いに敗れ、一乗谷を放棄して大野郡へ落ち延びるとこれに随う。朝倉景鏡の裏切りにより義景が自害した後、愛王丸、光徳院(義景母)とともに捕らえられ、8月26日、織田信長の命を受けた丹羽長秀の手により、南条郡帰りの里付近で殺害された。


ただし『越州軍記』には愛王丸と光徳院が害されたとは記されているが、小少将の名はなく、生存説もある。更に、彼女のことかは不明だが、岐阜県御嵩町の願興寺には、義景の妾が寺の別当を頼って落ち延び、その後義景の遺児を出産したという言い伝えがある。


創作物上の扱い

戦国大戦

夫である義景とともに朝倉家の武将として参戦。

二つ名は「一条谷の妖星」。

朝倉家特有の顔を覆うものは目隠し。


見出し画像は戦国大戦のイラストがモデルになっており、二つ名に違わない妖艶な姿をしている。

台詞も『ふふ……存分に楽しんでいいわ』(開戦前)や、『本当のお楽しみは、これから……』(虎口攻め成功字時)など、色っぽいのが特徴。


スペックは、コスト1 武力1/統率5の弓足軽で、特技は「防柵」と「魅力」。

攻撃面での戦果は期待できないが、防御時の射撃による攻城妨害・「気合」特技の回復妨害と、サポート面は結構優秀。


持ち計略の「鳥篭の陣」(とりかごのじん)は、敵武将が一度入ると陣の範囲外へ出られなくなる陣形を展開するが、自身は動けなくなってしまう。

範囲が広めなため完璧に封じ込めることはできないが、その分多くの敵軍武将を閉じ込めやすい。

兵力がわずかの敵武将を確実に処理したり、防御に回ろうとした敵武将を捕まえて攻城を有利にするなど、用途が非常に多彩。


「早く私のところへ戻っておいで……」


もう一人の小少将

実は同時代に、三好義賢の家臣・岡本牧西の娘でもう一人、「小少将」という名の女性がいた(生没年不詳)。

絶世の美貌を誇った彼女は、三好家の主君で阿波守護の細川持隆(管領・細川晴元の従弟)の目に止まり、側室として細川真之を出産。その持隆が謀殺されると、三好義賢と再婚。三好長治十河存保の二人の息子をもうける。義賢の死後は、三好家重鎮・篠原長房の弟・自遁に嫁ぎ、その自遁が長宗我部家に敗れ、落ち延びた淡路で没した後は、長宗我部元親の側室となって長宗我部右近大夫を出産している。その後の足跡は不明。


これだけでも波瀾万丈の人生だが、彼女が嫁いだ家はことごとく滅び、夫も子供も全員ろくな死に方をしていない。最初の夫・持隆は、三好長慶の謀反で力を失い、巻き返しを図ろうとして義賢に謀殺される。次の夫・義賢は、畿内の畠山家との戦で戦死。その家臣・篠原自遁に嫁いだ際は、彼女を巡って自遁と長房の関係が悪化(死んだ主君の妻との結婚は不義理だと長房が強く反対した)。結果、自遁は長房を主君三好長治(彼女の次男)に讒言し、それを真に受けた長治に長房は殺され、阿波地侍を束ねていた長房を失ったせいで篠原家のみならず三好家も衰退してしまう。自遁はその後、四国を席巻した長宗我部家に敗れ、落ち延びた淡路で野たれ死ぬ。最後の夫となる長宗我部元親は、豊臣秀吉に敗れて降伏し、その命で参加した島津家との戸次川の戦いで嫡男信親を失い、ショックから腑抜けた暗君と化す。その後、長宗我部家は元親の失政や家督争いで滅亡への坂を転がり堕ちていく。

息子たちも同様の顛末をたどっており、長男・真之は、傀儡として三好家に利用される。そして、次男・長治は、父・義賢の後を継ぐが、三好の傀儡となるのを嫌った真之と対立を起こし、長宗我部元親らの援助を受けた真之に討たれてしまう。その真之も、長治に代わって三好家を率いた三男・存保と争い、織田信長の支援を受けた存保に自害に追い込まれた。その存保も信長に代わった秀吉に従属し、元親らと共に参加した戸次川の戦いで、軍監・仙石久秀の無謀な作戦のせいで戦死する。彼女の最後の子となった四男・右近大夫は、関ヶ原の戦いで長宗我部家が改易された後、加藤清正に仕えたが、異母兄・長宗我部盛親が大阪夏の陣で捕えられると、それに連座して切腹させられた。


これらの経歴から、時代に翻弄された悲劇の美女であり、厳しい時代を生き抜いた烈女(政略結婚ではなく自分の意志で相手を選んでいたらしい)であり、その悉くに謀略が絡む悪女であったと言える。まぁ、ぶっちゃけて言うなら戦国一のさげま‥。いずれにせよ、彼女もまた『傾国の美女』だった思われる。ただし、最後の元親との結婚に関しては、どう少なく見積もっても当時彼女は五十歳前後であり、現在の医学でも妊娠困難な年齢のため、元親の側室となったのは、ほぼ同時期に四国に落ち延びてきた明智光秀の同名の姪ではないかと言われている(信長の生前、光秀は長宗我部家との交渉を担当していて縁が深かった)。この場合、彼女は存保の長宗我部家への人質だった、自遁と共に淡路で没した、実は長治と真之の争いを諌めようとして殺されていた、などと言われている。

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