1944年(昭和19年)3月〜7月まで行われた、インドのインパール攻略作戦である。
日本側の司令官は牟田口廉也。ビルマから山脈を越えてインパールに攻め入るというものだったが、計画の立案時点から補給などに問題があるとして反対意見が出ていたが、反対する者が次々更迭されて実行される羽目になってしまった。
案の定ジャングルや山を越えていく進軍は困難を極め、牟田口が考案したジンギスカン作戦(牛に荷物を運ばせあとで食糧にする)も牛が途中で逃げたり川に落ちるなどして大失敗。
すっかり補給が伸び切った状態で4月に入ると現地は雨期になり前線は飢えと雨と伝染病の地獄絵図と化した。そんな中牟田口をはじめとする司令部の面々ははるか後方のリゾート地メイミョウ
でのんびりと過ごしていた。
前線の指揮官の1人第31師団長・佐藤幸徳陸軍中将はあまりの惨状をみかね撤退を進言するも聞き入れられず。ついに5月末独断で撤退を決意。「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」と司令部に返電し自身への処罰を覚悟で退却させた。しかし牟田口は佐藤を更迭、同様に撤退を進言した第33師団長柳田元三陸軍中将・第15師団長山内正文陸軍中将を更迭。山内は現地でマラリアに罹患しており、牟田口らへの恨みを残しながら日本に帰れず死亡した。
7月3日、作戦中止が正式に決定した。
そのあまりに杜撰な計画と無惨な失敗は現在にも通じる大きな教訓を残している。
・・・・・・というのが定説だが、この話には実は裏が存在する。
“裏”概要
インド国民軍の関わり
この戦いは、日本軍とインド国民軍とが合同で行ったものであった。
当時のインドは200余年もの間、イギリスの植民地支配にあり、日本軍がイギリス植民地であったマレー半島・シンガポール・ビルマのイギリス軍を破竹の勢いで撃破し、歴史的な『マレー海戦』の完全勝利に、インド国民は歓喜していた。インドの独立をずっと訴え続けていたチャンドラ・ボースは、日本軍に協力していたビハリー・ボースやモハンシン大尉の強い要請から日本に受け入れられ、東條英機首相から無条件援助の確証を得て、1943年10月21日『自由インド仮政府』を樹立、日本政府が同年23日に正式に承認した。同年24日に正式にアメリカ・イギリスへ宣戦布告を宣言し、日本と共に戦うこととなった。インパール作戦は、その日本とインドの友好を永遠に決定づけた戦いである。
この作戦は、日本がインドに侵攻してインド独立を支援する事によって、イギリスの戦力を割き、さらにエジプトに侵攻しているドイツと連絡する事によって、連合国を分断する事が出来るというものであり、同様な事は「太平洋戦争は無謀な戦争だったのか」と言う翻訳書で訳者が「私は、インド洋作戦こそが、第二段作戦の中心であり、それによって英本国への豪・印からの原料・食料などの補給遮断、スエズ英軍への米からの武器補給遮断、カルカッタ−アッサムからの重慶への米補給路の遮断などの莫大な効果をあげることができる、と結論付けていた。」と語っている。
このインドへの侵攻の基本構想は開戦直前の「対米英蘭蒋戦争終末に関する腹案」に明記されていると言う。すなわち海軍の『ハワイ作戦』、『ミッドウェー海戦』などは、この基本構想に全く反するものであり、インパール作戦こそが基本構想にかなったものであった。
英国公刊戦史では途中撤退した佐藤幸徳中将の行動を非難し、「あとひと押しで日本の勝利はあったのであって、英国は窮 地に陥っていた」とさえ言っている。指揮した参謀の牟田口中将の評価も意外なものがあり、戦史の常識では無謀な作戦から逃亡した佐藤中将の行動を、多くの部下を飢餓から救った人道的指揮官として、牟田口中将は無謀な作戦を強引に発動した軍人として非難している。ところが佐藤師団の撤退によって師団は救われたものの、置き去りにされた他の師団は多数の被害を出している。あまつさえ、勝利さえ失ったのである。インパール作戦はむしろ大本営の望んだものであり、牟田口中将は上官に逆らう事を最も忌み嫌った軍人であったと言う事を記録で証明している。第十五軍の河邊方面軍司令官が、 当初は作戦に積極的であったので牟田口中将を督励し、不利になって変心してもそれを明言せず、 牟田口中将の指揮に一任したのである。
日本はインドの独立を助けるためにインド国民軍と共にインドに攻め込もうとしたのである。