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小西行長の編集履歴2013/10/06 08:22:48 版
編集者:十津川烏
編集内容:采配のゆくえの小西行長を追記

史実

弘治元年(1555年)?~慶長5年(1600年)

堺の商人の次男として京都で生まれた。父の影響でキリシタンとなり洗礼名「アウグスティヌス」を持った。

はじめは宇喜多直家に家臣として仕え、次に豊臣秀吉に仕えた。天正9年(1581年)に播磨(兵庫県)の室津を支配し、船奉行として水軍を率いて活躍し、小豆島を与えられた。その一方で、バテレン追放令で改易された高山右近をかくまった。

天正15年(1587年)、九州征伐で肥後(熊本県)の一揆勢を鎮圧し、肥後南半分の宇土を所領とした。領内に多くの宣教師を招いて教会や聖学校を建て、パイプオルガン時計も作った。だが、肥後北半分を所領としていた加藤清正と対立が多くなった。

朝鮮交渉を担ったが、文禄の役で出兵となり、平壌まで攻略できた。京城攻めの時、清正と先陣争いをして行長が先陣を果たした。

軍が遠征してきて一進一退を繰り返し、との講和交渉に携わった。そこで行長は、には秀吉に降伏して日本国王として冊封を受けると偽り、秀吉にはが降伏したと偽り、双方の降伏偽装を画策した。しかし、大阪でのの使者との講和交渉が決裂し、行長は秀吉の怒りを買ったが、前田利家淀殿のとりなしで許された。慶長の役で再び朝鮮出兵をするが、慶長3年(1598年)に秀吉の死去で帰国。

関ヶ原の戦いでは西軍に与し、関ヶ原に参戦するが敗走。降伏し京都で処刑された。

元々は商人だったがその優秀さを秀吉に見込まれ大名へと抜擢された。

損得勘定を第一に考え、算盤を手放さない。無用な犠牲を払うことはしない。

そのためけち臭く見えることもあるが商人として信用を重視したりする一面も。

後日談では安国寺恵瓊と共に海外相手に商売を始める。

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