生涯
永禄12年(1569年)?に近江(滋賀)で浅井長政とお市の長女として生まれた。兄妹には兄の万福丸と妹の初と江がいた。
天正元年(1573年)、浅井家は茶々の伯父である織田信長と対立し攻められ、父や兄は討たれ、母子は尾張(愛知)へ移った。
天正10年(1582年)、お市は柴田勝家と再婚したが、明智光秀が本能寺の変を起こして信長を討ち、羽柴秀吉が光秀を討ち、今度は秀吉と勝家が対立。天正11年(1583年)、お市は娘達を逃し、勝家とともに自害した。
三姉妹は秀吉の庇護を受け、天正16年(1588年)に茶々は豊臣秀吉の側室となった。翌年に鶴松が生まれるも亡くなり、文禄2年(1592年)に豊臣秀頼が生まれた。鶴松誕生の頃に山城(京都)の淀城を賜り、「淀」と呼ばれるようになった。秀吉死後は秀頼の後見人として豊臣家の実権を握った。
関ヶ原の戦いに勝利した江戸の徳川家康とは対立するようになり、大坂の役では指揮を執るも完敗し、慶長20年(1615年)に秀頼とともに自害した。
人物
彼女の名前は色々あるが、「茶々」は生涯ずっと名乗った名で、「菊子」は朝廷から授かった名である。「淀」に「殿」や「君」がついた名前は後年のもので、生前は「淀の方」や「淀様」と呼ばれていたとされる。
戦国一の美女と言われたお市の娘であるが、茶々にはその面影が色濃く残り、かなりの美貌といわれた。さらに身長が約170cmという当時の平均身長を越える背の高さで、父母の大柄だった体格の血を受け継いでいたという。
秀吉は生前のお市に憧れていたが、茶々がお市に似ていたため、彼女を側室に迎えたという。
実の父親が自害、母親の再婚相手と共に二人目の父親も死亡、こういった経緯からか、変化を恐れていたらしく、徳川への抵抗もこれが根底にあったと言われる。一説では、秀吉の病死も、秀頼が生まれた事で世済みと見なした茶々と、彼女と付き合いの長い大野治長による長期間による服毒の暗殺であったのではないかという説もある。
また、人生経験のせいか、当時の名医曲直瀬道三の診断によると、ヒステリックの診断を受けており、大阪の陣の際に見せた暴走はこれだったのかもしれない。
また、息子の秀頼に対しても過保護過ぎていた面があり、後の豊臣の大切な後継者とはいえ、彼が20歳を経ても尚、全く戦場へ出陣させなかった判断は、一部の家臣達に不安を抱かせ、徳川勢力の付け入る隙を与え、更には大阪の陣の際に、殆どの名のある武将達を敵に回してしまった理由になったといわれている。