文字通り、腹を切ること。
概要
意味合いとしては文字通り「腹の内を見せて疾しいことは無いと証明する」もの。
現代においては「何らかの責任をとって役職等を辞する」ことの比喩としても用いられる。
なお、(後世には形骸化しつつも)あくまで切腹は武士の「名誉ある死様」であり、武士であっても非道の行いが過ぎたり、名誉など与える必要が無いと判断された時には打首に処される。代表的な所では島原の乱終結時の島原藩の藩主、松倉勝家が挙げられる。彼は失政の責任を問われ、大名という名誉ある地位にもかかわらず打首に処された。
自害の方法としては古く、平安時代の武士源為朝が最初に行ったとされる。
後に高松城水攻めの際に清水宗治が城兵の助命と引き換えに見事に切腹して果てた事から、名誉ある死であるという認識が広まった。
作法
江戸時代に確立した作法では、切腹人は浅葱色の装束を左前に着るのが正式。ただしイラストなどでは見栄えのする白装束で描かれていることが多い。
使うものは懐紙を巻いた短刀。
切腹の際は左の脇腹に短刀を突き刺し、それを右の脇腹まで引いて腹部を真一文字に切り裂く。
その後は短刀を一度抜いて鳩尾に突き刺し、臍の下まで押し下げることで腹を十文字に切る方法や、短刀を抜かずにそのまま左の脇腹まで切り戻すなど、幾つかの切り方があった。
ただし後述の通り凄まじい激痛を伴い、腹を真一文字に切り開くことさえ難しい。そのため、圧倒的な負け戦で人がいなかったり切腹する当人が介錯を望まない場合を除き、基本的には刃を腹に突き立てた後に介錯人が首を落として終わりとなる。
介錯には完全に首を落とす方法、武士の頭を地に落とすのは無作法として首の皮一枚だけを残して胴にぶら下がるようにする方法などがあった。
なお、介錯人は作法によって袴は着用しない。
で、実際どうなの?
腹部は腸という神経の詰まった臓器の収納部であり、なおかつ致命的な急所が少ないため、気を失うほどの激痛が延々と続くらしい・・・。切腹時の死因は出血性ショックということになるが、すぐに死ねるものではない。極度の痛みと緊張のために刀を腹に突き立てると同時に失神したり、腹から腸がはみ出るほどの深手を負いながら生還した事例もある。
そのため、切腹を本当に行うには人並み外れた意思の強さを要する。屈強な武士といえども、本来の切腹を完遂できる者は稀であったことは想像に難くない。切腹人を確実に死に至らせるため、切腹の際には切腹人が腹を刺すと同時に打ち首をおこなう介錯人を伴うようになり、切腹する人間の苦痛を早めにとり去るようになった。
江戸時代になり切腹の作法が形骸化すると実際に腹を切ることは無くなり、使うものは短刀ではなく扇子などを担当に見立てるようになる。その頃は短刀に見立てた扇子に手を伸ばす、あるいはそれを腹に突き立てる仕草をした瞬間に首を落とした。
ただし介錯は苦痛に悶えて動く首を的確に頸椎の間を切断、あるいは頸椎そのものを切断するという相当に高度な技量を要求される。
そのため生半可な腕前の者では腹を切った者をさらに滅多切りにすることになり、逆に苦痛を増大させることになってしまう。
なお新撰組の原田左之助は伊予松山藩の中間時代に上官と喧嘩になり、勢いで腹を切ったことがある。
また鑓で知られた(ただし子孫に伝わる話では剣術一筋であったとされる)谷三十郎は隊士の切腹の際に介錯を命じられたが上手くできずに周章狼狽して滅多切りにしてしまい、見かねた斉藤一が飛び出して一刀の下にとどめを刺した。
注意
このタグが付く作品は事柄上、R-18、R-18Gのイラストがほとんどであるため閲覧は要注意。