はじめに
空中レーダー基地の要求
すべてを目視で戦っていた中にレーダーとはやはり便利なもので、第二次世界大戦では
イギリスやドイツ、アメリカといった先進諸国が競って開発した。バトル・オブ・ブリテン(1940)やドイツ本国防空戦(1944)における防空網や、または沖縄での特攻機迎撃に威力を発揮したのがレーダーである。
終結後もレーダーの研究は続き、とうとう航空機にも搭載可能なまで小型化に成功した。レーダーの重要な要素としては出力以外にも探知範囲というものがあり、高い場所に登れば遠い場所まで見渡せるように、高い場所にあればあるほど探知範囲は広くなる。
航空機に大型の捜索用レーダーを搭載し、滞空させて空中のレーダー基地にする。
山にレーダー基地を建てれば済む空軍と違い、水面から限られた高さにしかレーダーを設置できない海軍での要求は強かった。1950年代、アメリカ海軍ではさっそくEA-1をダグラス社に作らせ、配備していた。
「便利なレーダー」へ
だが、このEA-1の評判はそこまで良くなかったようだ。
いくら大柄な攻撃機だったとはいえ、レーダー警戒機にするには小型すぎた。
おかげでレーダーも小型なものになり、搭乗できるオペレーターも1名だけ。
実際に使っても不便で仕方なかったようで、以降はE-1・E-2と、複数のオペレーターが搭乗できる大型機になっていく。そしてこのE-2では対潜哨戒機の改良だったE-1と違い、専用機として特化させたものになっている。
E-1(旧名称:XTF-1W・WF-2)「トレーサー」
S-1「トラッカー」を基にした初期のレーダー警戒機で、一番の特徴は背面に装備されたレドーム(レーダーアンテナ)である。当時の艦上機としては大型な機だったが、実際に使ってみると不便だったという。
操縦士・副操縦士・レーダーオペレータ2名の計4名で運用されるが、ただでさえ狭い機内にレーダー関連機器とオペレータ2名を詰め込んでいるのでやたら狭く、その上レーダー関連機器の冷却容量が不足気味だった。オペレータも手不足だったようで、E-2ではこれが3名に増えている。
空の鷹の目
E-2はそんなE-1の改良型として開発され、1957年にW2F-1として採用、1959年には実際の発注を受ける事となった。最初の試作機(レーダーなし)は1960年に、レーダーを搭載した生産機は1961年に初飛行を遂げる。1962年にはE-2と改称され、1964年から部隊配備が始まるとベトナム戦争にも参加した。
このE-2には最初から「艦隊戦術情報システム(NTDS)」にリンクし、艦隊外縁部の警戒を担当できるようになっている。当時のソビエトは対艦巡航ミサイルの開発に力を入れており、この低空で進入してくるミサイルを迎撃するためには、護衛艦艇がバラバラに迎え撃つのは効率的ではなかった。そこでE-2は艦隊司令官の『目』となり、より効率的に艦隊を運用するための道具として補助装置として期待された。
AWACSとしては空中指揮能力が足りないが、そこは耳目に徹して艦隊司令官の判断に任せればいい。当時の技術的問題もさることながら、こうして割り切ることで強力なレーダーと十分なオペレーターを両立することができたのである。しかし航空部隊のための指揮要員まで同乗させる余裕は(前述のとおり)十分ではないので、分類上は「早期警戒機」となった。
AEW
「Airborne Early Warning」の略で、これは「空中早期警戒」という意味である。AWACSとは空中での実地指揮能力が違い、もちろんAEWではかなり限定されたものになる。
名目上はもちろん、運用でも「空とぶレーダー基地」という程度であり、現在ではより能力の高いAWACSに代替されることが多い。当然ながら初期に求められたのがこうした「空とぶレーダー基地」であり、当時としてはこれで十分だったのである。このE-2を含め、二ムロッドやA-50といった機が該当する。
AEW&C
前者より空中での指揮能力を増強したもので、最後のCは「control」のことである。
AWACSよりも指揮能力は低く、オペレータの数ではボーイング737AEW&Cで10名程度と少ないものになっている。(E-3の場合は16~17名)
ただおかげで小型に収まるようになっており、もちろん機体価格も安くなる。もし買えるならAWACSの方がいいのだが、そこは財布と相談し、能力を少々切り捨ててでも買ったほうがいいと判断した場合は選定候補になる。
ボーイング737AEW&Cの場合、採用国はオーストラリア、トルコ、韓国。
E-2のあゆみ
前述のとおりベトナム戦争から実戦に参加しつづけており、空母艦隊の行くところ、「艦隊の目」として活躍しつづけた。その間処理能力の悪いアナログ式コンピュータをデジタル式に換装し(B型)。そこからさらに機材を更新してエンジンも強化したC型にも発展した。
C型が特に長く生産される(1971年~)間にこちらにも更新が行われており、現在では「ホークアイ2000」仕様が最新となっている。さらに最新鋭のE-2D「アドバンスド・ホークアイ」も現在開発中で、これからもしばらくは世界の空軍で「縁の下の力持ち」でありつづける事だろう。
ベッカー渓谷の航空戦(1982)
イスラエルはベッカー渓谷に配備された防空部隊を疎んじ、航空戦力による一斉攻撃で沈黙させることに成功した。しかし「航空戦」と呼ばれるゆえんはこういった防空戦力への空襲以外にも、上空で熾烈な戦いが行われたことによる。
この戦いでイスラエルは圧倒的な戦果を残す(プロパガンダによる水増しもあるだろうか?)のだが、この勝利にはE-2を管制にも使ったおかげだと分析された。以来、各国ではこういった空中警戒・管制機が研究・配備されるようになり、現在に至っている。
日本のE-2
1976年に起こった「ベレンコ中尉亡命事件」で日本の地上レーダー網の「隙」が明らかになってしまい、E-2の導入が(大慌てで)決定された。予算は1979年、導入は1983年、部隊の稼働は1987年から開始されている。
合計13機が調達され、三沢基地(青森県)の飛行警戒監視隊に配備。
現在は「ホークアイ2000」仕様に改造され、日本の北方監視に目を光らせている。
E-2D「アドバンスド・ホークアイ」
現在も開発中だが、最初の試作機「デルタワン(D型1号機の意)」はすでに飛行試験を開始している。
見た目はそう変わってはいないが、最大の相違点は目に見えないところにあるのである。
・新型のアクティブ・フェイズドアレイレーダーであるAN/APY-9の搭載
・GPSや軍事衛星を使った通信リンクシステムに対応
・共同交戦システム(CEC)を備え、味方同士での情報共有にも特化
一応目に見える部分も変わっている。新型エンジンと新型プロペラを採用し、こちらも性能は良くなった。また、オペレータの作業量が増えてしまったため、コクピットもデジタル化するとともにオペレーティング作業にも対応できるようになった。ただ、こちらの作業効率は良くないようで、あくまでも「必要な時だけは可能」というものなのだろう。
最初の機が配備され、使えるようになるのは2014年になる模様。