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佐々成政

さっさなりまさ

佐々成政とは、戦国時代・安土桃山時代の武将・大名。
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概要

生年不明(後述)~天正16年閏5月14日(1588年7月7日)
尾張国春日井郡比良城(現在の愛知県名古屋市西区)出身。通称・内蔵助(くらのすけ)。
父は佐々成宗(名前は『盛政』ともいわれる)。

織田信長配下・黒母衣衆として知られる。

佐々氏について

佐々氏は宇多源氏の流れを汲む佐々木氏の嫡流である六角氏の庶流(鎌倉時代後期の武将・六角泰綱の末子である佐々頼起、応仁の乱で主家に背いて戦死した六角政堯の子・佐々成義から始まる説等)といわれるが不明(また他に菅原氏とする説もあるが、これは成政の父・成宗が一時期に母方の菅原姓余語氏を名乗っていた事による)。

その一方では、藤原氏説もある。かつて尾張国高田寺にあった大永5年(1525年)銘の梵鐘に、檀那として「比良佐々下野守藤原貞利」と刻銘されており、当時は藤原氏を名乗っていた事が知られ、そうなると「佐々貞利」という人物は成政らの父に当たる可能性がある。また佐々氏の子孫には藤原氏を名乗る家もある。

いずれにせよ、一代で成り上がった他の多くの戦国武将と同じく、その出自ははっきりしない。但し、佐々氏は家紋は「棕櫚」であるものの、軍旗には佐々木氏一族の定紋である「四つ目結(隅立て四つ目)」を使用していたという。

生涯

家督の相続~府中三人衆

尾張国春日井郡比良城に拠点を置く土豪・佐々成宗の三男として誕生。其々「小豆坂七本槍」として勇将で名を馳せた二人の兄(佐々政次、佐々孫介)の相次ぐ戦死により、永禄3(1560)年に家督を継ぎ、比良城主となる。織田信長に仕え、馬廻り(大名の護衛)を経て永禄10年(1567年)に精鋭部隊黒母衣衆の筆頭に抜擢され、元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いに先立つ「八相山の退口」では、簗田広正・中条家忠らと共に少数の馬廻衆を率いて殿軍に参加し、鉄砲隊を率いて活躍する等の戦功をあげた。。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは前田利家野々村正成福富秀勝塙直政と共に鉄砲隊を率いて武田軍の撃破に貢献。その後、柴田勝家率いる北陸方面軍に軍団長として従軍し、越前府中(3万3000石)に領地を与えられ、成政は小丸城を築いて居城としている。同じ様に領地を与えられた前田利家不破光治と合わせて「府中三人衆」と呼ばれた。

越中の大名~小牧・長久手の戦い

天正8年(1580)年、越中の守護大名である神保長住の助勢として成政は対一向一揆衆・上杉氏の最前線にある越中国平定に関わり始め、翌天正9年(1581年)2月には越中半国を与えられ、更にその翌天正10(1582)年には神保長住の失脚により正式に越中一国の守護となり、富山城に大規模な改修を加えて新たな居城とした。

また越中一国を与えられたその年には魚津城の戦いが起こっており、上杉軍の守将である中条景泰吉江宗信吉江景資達が籠る魚津城を成政は柴田勝家、前田利家、佐久間盛政と共に3ヶ月の包囲戦の末、攻略に成功して完全に越中を支配下に置いた。だが、まさにその次の日に本能寺の変が起きてしまう。変報が届くと諸将は各々自らの領地へと引き上げた為、成政は上杉家の反撃への対応に追われて動く事が出来ず、豊臣秀吉に先を越されてしまう。
その後に起きた信長の跡目争い(清洲会議)では勝家側につき、賤ヶ岳の戦いでも勝家側に与するが、上杉景勝への備えの為に越中を動けず、叔父の佐々平左衛門が率いる兵600の援軍を出すに止まった。勝家の敗死後は前田利家の寝返りや上杉景勝の圧迫もあり、娘を人質に出して剃髪する事で秀吉に降伏、越中一国を安堵された。しかし天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いでは当初は秀吉側に付く素振りを見せたものの、後に徳川家康側に寝返って翻意を露にし、秀吉側の前田利家と激しく争った(末森城の戦い)。しかし家康が秀吉と講和してしまうと立場が悪化、家康に再び決起してもらう為に厳冬の北アルプスを越えて(さらさら越え)直談判にいくが失敗。織田信雄滝川一益にも交渉するが色良い返事はもらえず、結局翌天正15(1585)年に秀吉自ら挙兵して越中に侵攻して来た(富山の役)際、幾許か抵抗をした後、援軍が来ない事を悟り織田信雄の仲介で降伏する。結果として助命されたものの越中・新川郡を除く、領地の大半を没収された。

肥後の大名に復帰~最期

その後しばらく妻子とともに大坂に移り御伽衆(よく言えば執事、悪く言えばパシリ)として秀吉に仕える。九州征伐に功があり、肥後一国を与えられて再び国主に返り咲く。そして着任早々太閤検地を実施するが、これに地元の国人が反発。国人の隈部親永を中心に一揆を起こされてしまう。成政は即座に親永の籠る隅府城を攻め落とすが、親永の逃亡先である城村城攻略に手間取っている間に別に兵を挙げられ、逆に苦境に立たされる。結局援軍要請を受けた秀吉の出陣で一揆は年内に鎮圧されるが、成政は謝罪の為に大阪に赴く事になる。しかし弁護人として立てた安国寺恵瓊による助命嘆願も効果なく謝罪は拒否され、成政は一揆の責任をとらされる形で摂津尼崎の法園寺に幽閉された後、自害させられた。

享年は53歳といわれるが、生年が天文5年1月15日(1536年2月6日)の他にも、永正13(1516)年、天文8(1539)年と諸説がある為に不明。

辞世の句

この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり

その後の佐々氏

成政の息子(佐々松千代丸。 天正2(1574)年の長島一向一揆討伐において戦死)は夭折しており、婿養子である佐久間勝之も富山の役で成政が降伏した事を機に成政の娘と離縁して復姓した為、成政の系統は断絶した(※)。但し、傍流(成政の実姉)の子孫として、徳川光圀に仕えた佐々宗淳(「水戸黄門」の助さんこと佐々木助三郎のモデルとされる人物)、元内閣安全保障室室長であり、政治評論家の佐々淳行や佐々瑞雄(佐々成政研究会会員。こちらは成政の甥・佐々直勝の子孫にあたる)等がおり、佐々氏の血脈自体は残っている。

(※)只、真相は不明だが、江戸時代中期に尾張の名産品の一つである、綿織物の「佐々絣」を創始した佐々成信は成政の後裔と言われている。

人物・逸話

  • 血気盛んで猪突猛進な武将のイメージが強いが、実際は政治家としての手腕もあり、数年間の越中統治の際に堤防を築き、越中領民の悩みの種である河川の氾濫による水害を防いでいる。その為領民は成政の事を慕い、その堤防は「済民堤」または「佐々堤」と名付けられて現在でもその遺構は残っている。
  • 非常に短気で嫉妬深く、その上猜疑心が強いと、女性関係に関しては細川忠興にも劣らぬ苛烈な面があったとされている。側室に小百合(さゆり)という美しい女性がおり、彼女は成政の子を懐妊していたが、成政が留守にしていた間に「小百合の妊娠した子が成政の子ではない」という悪評が流される。これを聞いた途端、烈火の如く怒り狂った成政は、まともな確認もしないどころか、あれだけ寵愛していた小百合当人の言い分もろくに聞かず、彼女を神通川の川沿いまで髪を引っ張って引きずり回した挙句、制止した家臣達も振り払って惨殺してしまっている。これだけでは満足しなかった成政は、一方的な腹癒せに近い形で小百合の一族18人を一人残らず首を撥ねて獄門に磔にしてしまったとされている。この際、小百合の一族達の呪詛の叫びが「黒百合伝説」の元になったとされている。
  • 羽柴(豊臣)秀吉を嫌っており、同じ母衣衆の前田利家とも仲は悪かったという。また、同じく秀吉嫌いの柴田勝家とも富山城の攻略において大将とは思えぬほどの取り乱しぶりで大喧嘩をやらかしており、必要以上に敵を作るところがあったようである。
  • 富山県の呉東地区では、江戸時代を通して加賀藩・富山藩の藩主として君臨し、賤ヶ岳の戦いで上司である柴田勝家を裏切った前田家(前田利家)とは対称的に最後まで忠節を尽くし、前述の神通川の治水工事等の善政を布いた成政の人気が高い(しかし、対照的に高岡市を中心とする呉西地区では、三代目藩主前田利常の菩提寺が高岡にある事や、越中ながらも加賀支藩の富山藩ではなく加賀藩本領内であった事から、加賀前田百万石への敬愛の念が強い)。
  • 織田家臣の中での後世の扱いは不遇な方であり(佐久間信盛などよりはだいぶマシだが)フィクションでも出番が少ない。ただ織田家に対して忠義を尽くしてはいるので、愚直で不器用な武人としてそれなりの見せ場を与えられることもある。
  • 歴史書の一つである「武功夜話」によると…
    • 織田信長による美濃侵攻の際、秀吉が築城に成功したとされる墨俣城の基礎工事は成政が行った。
    • 元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦い、姉川の戦いの頃に火縄銃による「二段撃ち」を考案したと言われ、更には長篠の戦いで武田軍の騎馬隊を打ち破ったとされる「三段撃ち」も成政が工夫したものである。
    • 浅井軍の侵攻を秀吉が殿を引き受けて信長を無事撤退させた事で知られている金ヶ崎撤退戦でも成政が鉄砲隊を率いて秀吉の援護射撃を行い、撤退成功の一役を買った。

…と記載されている。但しこれら成政の功績・記録は一方で「信長公記」には記載されておらず、また「武功夜話」自体が幾人かの研究者によって偽書説が唱えられている事、及びその元は尾張の土豪であった前野家の動向を記した覚書、古文書等を集成したものである事を考慮する必要がある為、信憑性に欠けている(尚、前野家の一人である前野小兵衛という人物は成政の家老として仕えていた)。

  • 天正18年(1590年)の小田原の役で、蒲生氏郷が「三階菅笠」の馬印の使用許可を秀吉に願い出たところ、秀吉は「三階菅笠は武勇高き佐々成政が使用した馬印。それに相応しい手柄を立てれば使用を許そう」と言い、これを聞いた氏郷は小田原の役で満身創痍となりながらも活躍し、見事馬印の使用を許されたという逸話が残る(『常山紀談』)。勝者である秀吉や前田氏に悪評を創作され、過小評価を受けがちな成政であるが、その秀吉・前田氏にも軍事指揮官としての力量は認められていた模様で、この様に多くの賞賛の記録が残っている。
  • 新規の家臣を召抱える際、最初に提示した禄高よりも多くの知行を仕官後に与えた事から、「気前の良い殿様だ」という事で仕官を望む者が絶えなかったという。また、この仕官の際の面接においても、家柄や血筋ではなく「いかに過去、武功を挙げたか」という部分を重視して、その話を聞くのが大好きであったとされる。

創作物上の扱い

戦国大戦

\いぎを もうしたてる!/
【戦国大戦】佐々成政+α


CV:小野大輔
成政が戻ってきたぞ、安心せよ!!」(復活時)
この成政が~っ!!」(撤退時)
ふっ、楽勝だな!!」(開幕時及び計略発動時)
さあ、ここからは俺の時間だ!!」(虎口攻め発生)
ふっ、楽勝すぎて欠伸が出るわ!!」(虎口攻め成功)
織田を支える若き才……、それがこの成政よ!!」(カード裏台詞および落城勝利時)

見出し画像を含めてpixiv上のイラストの内、大半が戦国大戦のものだが、本作では上記に掲載している、相当な自己主張かつインパクトのある台詞を喋る、自信家でナルシストなキャラクターとなっている。特に復活時の台詞の印象が強く、一部のファンから渾名として「安心」と呼ばれる事もある。

スペックは、コスト2 武力7/統率7の鉄砲隊。特技こそ無いがスペックに関しては優秀で、「母衣衆の采配」という計略を持つ、使い勝手の良い武将として人気がある。

計略の内容は「織田家」の味方の武力を引き上げ、かつ敵のダメージ計略や妨害計略、罠計略の対象にならなくなるというもので、主にダメージ、妨害系統の計略をメインに据えたデッキに対して、無類の強さを発揮する。また、「敵と味方の部隊数の差」や「敵の武力値」によって効果が出る計略(甘粕景持の「龍の如く」、鬼小島弥太郎の「鬼に金棒」等)にも抜群の効果があり、いずれも相手側の部隊全てが「母衣衆の采配」が発動中の状態でそれらの計略を使うと、問答無用で武力上昇値が1となる。

只、あくまで効果の対象となるのは味方の武将が「織田家」に属している者のみという事と、武力上昇値が4とそれほど高くない為、メインとして据え置く事は難しく、使い所が限られるのが欠点。また、「斬撃」という特殊な強化計略や統率差で影響が出る特技「焙烙」での攻撃、果ては自身の強化に付属する追加効果のある計略(例:統率力による戦闘ダメージを与える北条早雲の「千頭の劫火」、部隊同士が接触して武力の低下する久保姫の「吸精姫の采配」等)に対しては全く防ぐ事が出来ないので御注意。

しかし巧みに使えば裏の手、もしくはコンボ要因として十分に実力が発揮する事が出来る武将と言える。

尚、エクストラカードとしても登場(ムック「『阿修羅への道』DVD 凱歌之書 (ARCADIA EXTRA)」に付属されている。CVは野宮一範が担当)。武力値及び計略こそ同じだが此方は「黒母衣衆筆頭」の肩書きが付加。兵種は騎馬隊で、統率はRの自分自身より3下がっている。故に「母衣衆の采配」の効果時間はRよりも劣るが、数少ない「織田家」の騎馬隊故、貴重な存在でもある。

更にはVer2.1「1590 葵 関八州に起つ」にて再び登場。「孤高の狼」という肩書を持ち、銀色の甲冑姿、長髪のナイスミドルな風貌に百合の花を銜えながら抜刀するという、何とも趣のあるイラストが印象的。

前2枚同様にレアカード、兵種はエクストラ同様に織田家では数少ない騎馬隊、能力値はコスト2.5、武力8、統率力は7と標準的であるものの、特技として「制圧」を持っている為に中々のスペックである。CVは岡野浩介氏。

所持計略名は彼の逸話の一つである「さらさら越え」で、その内容は強化陣形で織田家の味方武将の武力(+5)、移動速度を上昇(鉄砲隊までは迎撃されない程度)、更には部隊同士の押し合いが無くなり、そのまま乱戦、もしくはすり抜ける事が可能という代物。

使い方としては成政自身が騎馬隊の為、相手に槍足軽がいたとすればもう一方の味方が相手と徹底して乱戦に持ち込み、槍の穂先を消してそのまま連続突撃をする、また押し合いが無くなる為、相手部隊との統率の差を無視してすり抜け、虎口攻めや攻城、大筒の争奪に向かう事が可能。

唯、「母衣衆の采配」同様に織田家のみにしか効果が無く、武力上昇値こそ控え目で敵の大型計略とのぶつかり合いに強くはないのもまた事実。しかし巧みに使えば数値以上の戦果を挙げる事もまた可能である。

Ver.3.02Gに於いて武力上昇値が+4から+5に上昇。その代償として陣形の範囲の縮小、及び移動速度の減少が施されたものの、武力の上昇は戦闘に於いてかなり有利な位置にある為、デッキの主力として活躍出来る可能性が出て来ている。

関連タグ

織田信長 豊臣秀吉 前田利家 柴田勝家 戦国大戦

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