概要
河内型戦艦は、第一次世界大戦前に竣工させた最初で最後の弩級戦艦である。日本主力艦でもある。
解説
イギリスの戦艦「ドレッドノート」が完成し、それ以前の前弩級戦艦は時代遅れとなった。日本でも初の国産戦艦の薩摩型が竣工前に時代遅れとなり弩級戦艦の建造が急がれ、こうして造られたのが解説する本艦である。
2隻がそれぞれ「河内」、「摂津」に命名する前に基本計画番号「A-30」が付され、河内は「伊号戦艦」、攝津は「呂号戦艦」と号せられた。本艦は2隻とも1912年に竣工した(しかし、起工したのは摂津が先であった)。2隻とも近畿地方の旧国名である。
同一の主砲を多数搭載し統一指揮を行うのは、弩級戦艦の必須条件であるが、前述の通り河内型の主砲には砲身長が異なる二種類の主砲を搭載しており、ゆえに河内型は弩級戦艦ではなくて準弩級戦艦ではないかという意見がある(まぁ、本当にこの艦級が付けられていたのか定かではないが・・・・)。少なくとも初速が違う主砲では、統一した射撃管制指揮は不可能になり、弩級戦艦としての要件を全く満たしていない。そのため、両砲の初速を揃えるために、砲塔ごとに装填量の違う二種類の薬のうを用意する羽目になった。すなわち、最も威力の高い50口径砲の装薬量約133.5kgで計画初速914m/sとなる物を、45口径砲に合わせて約112kgに減少させて初速810m/sに抑えたのだ(45口径砲の装薬量はこれより若干大きい)。なお、装薬量削減に伴って50口径砲の薬室容積を371.2ℓから240ℓに変更した。
主砲の初速を合わせたこの処置により、主砲の統一指揮には何ら不都合はなく、弩級戦艦として使用する要件を満たしているとも言える。このような2種類の砲を混載した理由としては、東郷平八郎の鶴の一声があったとも言われる。これについては、各口径主砲の火薬庫は個別に存在しており、装薬量の異なる薬のうをそれぞれの火薬庫に搭載すればよいため、異口径主砲混載による運用上の困難は生じないとする意見もある。しかしながら、少なくとも異なる種類の薬のうを用意する工廠側の煩わしさがあったことは想像に難くない。
本艦の最大の特徴として、15.2cm(45口径)副砲がある。後ちに超弩級戦艦に欠かせないものとなるが、これを搭載したのは本艦が初めてである。その他に対水雷艇用に「12cm(40口径)砲」を12門、「7.6cm(40口径)砲」を単装砲で16門を搭載した。他に対艦攻撃用に45cm水中魚雷発射管5基を装備した。
河内型の竣工した同年にはイギリスで初の超弩級戦艦ライオン級が竣工しており、本艦もまた完成したときには旧式化していった。そのため、本艦は弩級戦艦を目指し建造されたものの、結局は薩摩型の拡大改良版だからであり、その脱却は果たせなかった。これは、戦艦の国産化を始めたばかりの日本では斬新な設計の艦を建造するよりは従来型の戦艦を建造するほうが安心だったからであろう。ある意味、扶桑型戦艦を上回る不運に見舞われてしまったのだ。
同型艦
No | 艦名 | 工廠 | 起工 | 進水 | 竣工 | 戦没 |
一番艦 | 河内 | 横須賀 | 1909/04/01 | 1910/10/15 | 1912/03/31 | 1918/07/12 |
二番艦 | 摂津 | 呉 | 1909/01/18 | 1911/03/30 | 1912/07/01 | 1945/07/24 |
関連タグ
次級:金剛型戦艦