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浦上宗景の編集履歴

2015-01-20 20:40:54 バージョン

浦上宗景

うらがみむねかげ

浦上宗景とは備前の大名である。(生没年不明)

概要

浦上家は元々赤松家に仕える家臣であったが、赤松義村の代にて村宗が謀反を起こして義村を幽閉に追いやった挙句、暗殺している。宗景はその村宗の次男である。兄は浦上政宗


1531年に父が細川高国軍と連合して赤松・細川晴元連合軍と戦ったが、討死。この為、兄の政宗が家督を継いで赤松家の実権を握った。


1551年、尼子晴久の備前侵攻に兄の政宗は同盟を結ぶべきと判断するが、宗景は反発。政宗は尼子晴久や金川城主・松田元輝や砥石城主・宇喜多国定(宇喜多直家の祖父・能家の異母弟)と結び、宗景は毛利元就三村家親を初めとする備中衆と結んで対抗。兄と備前の覇権を賭けて争う事になる。


当初は膠着状態にあったが、次第に天神山城や新庄山城などで勝利を重ね、更には砥石城主・宇喜多国定を討ち取る。その後、兄の政宗は赤松政祐に裏切られて敗北。勢力を大きく削られてしまう。これに伴って宗景は備前国の支配権を獲得。


しかしそれでもまだ政治面では毛利軍の介入を受けたり、また、美作国に置いて勢力を伸ばす三村家親とは次第に険悪になり、また相当弱体化したとはいえ、政宗の勢力も未だ健在であった。


後には美作国に何度も侵攻するが、その度に政宗の援軍としてやってくる尼子軍の攻撃により敗北している。


1559年には家臣・島村盛実中山信正と謀反を企てると直家に命じて2人を討った。


兄との和解

1561年に尼子晴久が死去すると2年後に兄の政宗と和解。同年には三村家親と対決に持ち込み、末には毛利家の同盟を破棄している。


翌年には兄・政宗と甥の清宗が赤松政秀の攻撃に遭って戦死。跡を継いだ浦上誠宗に特に変わった動きは無いまま、三村との戦いに専念した宗景は明善寺の戦いで勝利。(実際は宇喜多直家が総大将であったが。)


そして誠宗を暗殺し、領国で専横を振う松田元輝親子を直家に命じて滅ぼす。そして瀬戸内海の児島を除く備前全域と美作東南部に拡大させ、戦国期の浦上氏の地位を得る。


1569年には赤松義祐則房親子・播磨の有力国人小寺政職と結んでその救援を名目に播磨における兄の遺領を吸収して、赤松政秀を討つ為に播磨西部へ侵攻。


更に尼子再興軍の尼子勝久大友宗麟と結んで反毛利対抗姿勢を露わにした。


直家の反乱

だが、政秀は同時に足利義昭織田信長に援軍を要請。8〜9月までは池田・別所軍の攻撃を受ける。


更に宇喜多直家がこれに乗じて謀反を起こして宗景は窮地に立たされる。しかし織田・足利勢は播磨の城を数か所落とすと撤退。宗景はこの隙に11月に龍野城を落として政秀を降伏させて所領を手中にし、直家を降伏させた。


直家の2度の反乱を恐れた彼は息子・宗次を直家の娘と結婚させて共存を図っている。


1573年には信長の計らいで別所長治と和解。この席で信長から備前・播磨・美作3カ国の朱印状を与えられて支配権を認められる。ここに赤松氏を凌ぎ、守護職に相当する地位を得て浦上氏は隆盛を極める。


だが、この朱印状は東播磨を治める小寺や別所までも浦上の臣下扱いにするという事を意味しており、反感を買う事となってしまった。


そして1575年に戦勝祝いに直家の屋敷から帰還した宗次が突如死亡。原因は毒殺であったとされる。


それに乗じて直家が2度目の反乱を起こす。流石に今回は部下の裏切りもあって敗北し、天神山城から退去した。


復権を図る

天神山城から退去した宗景は信長に謁見を図るが何度も失敗。挙句の果てに独力で復権を図る事を決意し、1578年12月に天神山城を奪還した。


しかし結局は援助していた星賀光重の戦死に伴って敗北。再び退去し、遂に備前への完全復帰は果たす事はなかった。


戦国無双

武器:槍 声:岡本寛志(特殊邂逅セリフの時は藤本たかひろ)


「この乱世、わしのような能力ある者がのし上がる!」(特殊邂逅セリフ)


無双3Empで初登場。主に備前の国で大名を務める。


関連タグ

宇喜多直家 浦上政宗

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