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ザ・ドリフターズの編集履歴

2015-04-03 15:04:42 バージョン

ザ・ドリフターズ

ざどりふたーず

『ザ・ドリフターズ』とは、日本のコミックバンドグループの名称。

概要

ハナ肇とクレージーキャッツ』を始めとする黎明期のマルチコミックバンドの1つ。通称は『ドリフターズ』、『ドリフ』、『新生ドリフ』。


1957年の結成時から1969年までのミュージシャン期、1970年以降のコメディアン期の双方で大きく活躍し、特に後者の活動によって昭和の芸能史に一時代を築いた。

来歴

かつては岸部清桜井輝夫坂本九小野ヤスシなどが在籍していたが加入と脱退の激しいバンドグループであり、1962年にいかりや長介加藤茶が加入して現在に続くドリフターズの産声を上げる。


1964年にいかりやがバンドリーダーに昇格後、同年9月に高木ブー荒井注が、翌年1月には仲本工事が加入して現在のドリフターズメンバーの基礎が確立される。荒井曰く「音楽喫茶全盛期には『ジャズ喫茶の帝王』の異名を持っていた」とされるほどの人気を誇り、1966年6月のビートルズ来日公演における前座を務めるというミュージシャンとしての輝かしい経歴を持つ。


この頃から徐々に「コントもできるコミックバンド」から「コント主体のコメディアングループ」に方向性を変え、クレージーキャッツを追い抜く人気者として音楽活動よりも映画などへのメディア出演に比重を置くようになり、1969年の『8時だョ!全員集合』主演によってコントグループとしての人気を不動のものとする。1974年3月に迎えた荒井の休業に伴う志村けんのメンバー見習い昇格によって一時期は陰りを見せたが、いかりやと志村それぞれの作詞、作曲を取り入れた『東村山音頭』で爆発的な人気を博すとを矢継ぎ早にヒットギャグを連発するようになり、従来の大ボケ役であった加藤がこれに対抗するギャグを生み出すという『加トケン』の図式が成り立つ。


その後、裏番組として台頭した『オレたちひょうきん族』との視聴率戦争による敗北や、できることはやり尽くしたなど諸般の事情によって1985年に全員集合を終了。これ以降はドリフターズとしての活動を『ドリフ大爆笑』にのみ絞り、加藤と志村はコメディタレント、いかりやは俳優、高木はハワイアンミュージシャン、仲本は演劇役者という形でそれぞれの道を歩むようになる。なお、加藤と志村は『全員集合』の後番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』に引き続き出演し、『全員集合』を打ち破った『ひょうきん族』を打ち負かしてリベンジを果たしている。

主だった音楽活動は加藤が『加トちゃんのスキャットマン』、志村が『ウンジャラゲ』などのCDをリリースする、いかりやがCMでコントラバスによるベース演奏を披露するに留まっていたが、後に加藤、高木、仲本がオールディーズナンバーを中心としたトリオバンド『こぶ茶バンド』を結成する。


2004年3月のいかりや逝去後も人気は衰えず、特選映像を収録したDVDパックシリーズの他、正規メンバー(いかりや、加藤、高木、仲本、志村)をモチーフとした『CRフィーバードリフだよ!全員集合』や彼らをオマージュした外国人5人組『ウリフターズ』(アンカー、ブラウン、ジェイコブ、マット、ケント)のCMで話題を呼ぶ一方、不仲にはなっていないが社会的な年功序列から高木とするか実質的な活動年数から加藤とするかによる4代目リーダー継承問題が有耶無耶のままとなっている。

主要メンバー

いかりや長介

1931年、東京都出身。バンドリーダー。ベース担当。


戦前生まれでは珍しい175cmの長身とシワの多い老け顔、負担をかけすぎた声帯によるダミ声が特徴。コントでは憎まれ役や災難に遭う役を主体としたが、ドリフターズ映画時代から俳優としての片鱗を見せており、晩年には『八丁堀捕物ばなし』『踊る大捜査線』『弁護士・猪狩文助』などで軽妙な演技を披露した。


綿密な台本を用意し徹底的な稽古を行った上での完璧なコントをこそ良し、とする考えを持っており、突発的なアドリブや暴力的なツッコミで観客の笑いを取る加藤と志村の手法を快く思わないながらも、許容するという一面も持っていた。


2004年、ガンの為永眠。


荒井注

1929年、東京都出身。キーボード担当。


いかりやのスカウトによってドリフターズに参加したが、想像よりも演奏技術が低かった事実を加藤が指摘したことで生まれた「なんだバカヤロー。」で人気を博し、これに類似する「なに見てんだよ。」「文句あるか。」などに見られるふてぶてしさを全面に押し出したキャラクターを定着させるが、体力の限界を理由に1974年3月に志村けんと交代する形でドリフターズの活動を休業する。


以後は様々な番組にコメディアンとして、一方では一切のギャグを封印して俳優として活動し、2000年には26年振りとなる正規メンバー6人体制のドリフターズによるCMを披露した。

その年の2月9日、肝不全の為死去した。


加藤茶

1943年、福島県出身。ドラム担当。


コミックバンド時代からボケ役を演じる一方、喉の良さから代表曲の大半でソロヴォーカルやメインヴォーカルを務め、整った顔立ちも相まってメンバーの中ではアイドルとしての立ち位置でドリフターズ映画作品での二枚目役を数多く演じる。


志村加入以前の大ボケ役をほぼ一手に担い、「加トちゃんペッ!」「どうもすんづれいしました。」「ちょっとだけよ。」や擬似くしゃみの「へっくしっ!」、吐き真似の「うぅえぇえ…」など様々なヒットギャグを持ち、特にサイレントコントによる酔っぱらいの千鳥足については志村の演技に大きな影響を与えている。

高木ブー

1933年、東京都出身。リードギター→キーボード担当。


20代の頃から全く変わっていないとされている肥満体が特徴。ドリフターズ加入前からいかりやと交流を持っていた旧知であり、その頃はすでに自身がリーダーを務めるハワイアンバンドの活動によって名を馳せていた。


コントにおいては必要以上にボケ役に回らないスタンスを保ち続けたために無能のイメージを浸透させたが、いかりやは「自分の方から高木をやめさせようと思ったことは一度もない」「ドリフの中では最も音楽性が高い」と自著『だめだこりゃ』の中で語るなど厚い信頼を寄せている。

仲本工事

1941年、東京都出身。サイドギター(ロックンロールナンバーに限ってはリードギター、ヴォーカル)担当。


厚い黒縁の伊達眼鏡が特徴。高校在学時は文武両道の秀才であり、大学卒業後に東京商工会議所への就職が内定していたが、いかりやが仲本の両親を必死に説得した末にギタリストとして参加した経歴を持つ。


ビートルズ来日公演の前座では『ロング・トール・サリー』のリードギターとヴォーカルを務めるなど、音楽活動におけるドリフターズの中核を担い、コントでも器械体操の経験を活かしたアクロバティックなサイレントコントやリアクションギャグを得意とする。

志村けん

1950年、東京都出身。サイドギター→キーボード担当。


幼少の頃からコメディアンへの憧憬を抱き、高校3年生の卒業間近にいかりやに弟子入りを直談判して加藤の付き人となるも、程なくして失踪すると様々なアルバイトを転々とした末にいかりやへの口添えを加藤に頼み込んで再び加藤の付き人として再出発する。


お笑いコンビ『マックボンボン』の結成と消滅、付き人への降格、荒井注の休業に伴うメンバー見習いへの昇格、2年に渡るスランプを経て前述の『東村山音頭』で一躍人気者となると「アーミーマー、ユーヤーユー!」「お前、それはないだろう。」「怒っちゃやーよ!」「あんだってぇ?」や加藤との共演による「ピッカピッカの、一年生、ビシッ!」」「ヒゲダンス」など様々なヒットギャグを量産し、コメディアン活動におけるドリフターズの中核を担うようになる。

すわしんじ(現・すわ親治)

1952年、鹿児島県出身。サイドギター、ドラム担当。


ドリフターズに憧れて付き人募集の面接に臨んで不合格となるも、必死の思いで食い下がって加藤の運転手として採用される。後に付き人を経て正式にいかりやに弟子入りし、音楽活動としては得意のギターと中心にしつつ加藤のドラム代行も行い、コメディアン活動では出世作となった「奇声を上げて暴れ回るブルース・リー」や「鏡男」などで準メンバーとして活躍したが、正規メンバー昇格を先送りにされ続けるうちに全員集合が終了した1985年に脱退。


サラリーマンとして勤めていた頃に「手押し車とのソシアルダンス」を開発して芸能界に復帰し、芸名も『すわ親治』に改めてソロ活動を始め、兄弟子として付き合いの長い志村の冠番組やメンバー昇格の約束を果たせずに才能を惜しんでいた師匠のいかりやの公演などへのゲスト出演をこなすようになる。

pixivタグにおける表記揺れ

pixiv内ではタグ「ドリフ」でドリフターズのギャグを用いたパロディ作品が多いのに対し、タグ「ドリフターズ」ではメンバーの姿を描いた作品が多い。


また、最近では同一表記である平野耕太による漫画作品『ドリフターズ』(DRIFTERS)とのタグ重複を回避するため、正式名称を用いる傾向にある。

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