概要
英:Daijokan.(Emperor bureaucracy)
古名『オオイマツリゴトノツカサ』、古代日本のそれまでの神代から続く大和大君(天皇)国家の豪族連合政権を革新をするために中華律令帝国の唐帝国(618-907)の律令中央政府(朝廷政府)『三省六部※1』の組織を参考に作られた律令政天皇親政日本政府(古代~中世の日本政府)と中央省庁(八省という)、地方政府(国司、大宰府など)の組織の総称。
神代~古代~中世以前までは曽我氏(約 ~645年頃まで)が朝廷要職に居座り(大臣)、『大化の改新(646)※1』以降は、中世~幕末までを藤原氏(697-1871)が朝廷要職(摂政・関白・太政大臣・右大臣・左大臣・大納言)に居座った。平安時代(794-1192)の日本文化を支えた、その後武家平氏が革命的に太政大臣となり、盛荘園などで力を蓄えた地方大名などが独立国的な動きを始め戦国時代に突入し、源、足利、織田・豊臣、徳川に代表される武家階級による幕府政治(1192-1867)が政治文化の主流になったため。太政官朝廷の中央政府は、もはや有名無実の存在となったが瓦解を逃れ建前的に存続した※2。
明治維新※3(1867-1889)に維新藩(革命勢力)が最初の維新政府『総裁政府(三職政府)』(1865-1867)に変わり、『王政復古』という事で革命革新で日本型西洋近代帝国国家建設を唱えながらも古代天皇政権の延長線上の刷新という事で新たに『太政官』を日本の明治天皇親政日本中央政府兼中央地方官僚機構として組織したとされる、一応幕末の太政官の延長線上ということにもされている。
新太政官の宰相として旧太政官の太政大臣・右大臣・左大臣・大納言・参議や八省(中央省庁)などを置くが維新藩(革命勢力)が中心となったので基本的に近代帝国に向かっての使い方となり使い方や八省の組織改変率はかつてとは異なっている、明治太政大臣三条実美宰相の下、参議職大久保利通(1830-1878)などが独占的権力を発揮して廃藩置県・郡県制※5など江戸時代の行政の刷新を断行し。伊藤博文(1841-1904)による大日本帝国憲法(1890-1947)による内閣制度下における天皇帝国を成立させる下地を整えた。大日本帝国政府と霞ヶ関中央官僚体制構築により(1890)、明治太政官日本政府(明治政府)は解消した。
【追記】
- ※1 三省(さんしょう)六部(六部) 旧中国の神代夏帝国(約2000-1600ごろ)に始まり秦帝国B.C778.221(始皇帝の秦)-206)から古代中国の支配者が用いた律令制を兼ねた皇帝政府(朝廷)官僚機構。日本でたとえると三省が天皇直属の御前会議にあたり、六部が中央省庁(霞ヶ関)にあたる。日本の朝廷官僚機構
- ※2 大化の改新・・・646年に起きた曽我氏から藤原氏への大臣ポストのクーデターによる政権交代、日本史において近代国家・幕府以前の文献上の政権交代劇は大化の改新のみであり。2000年近くを『曽我さん(大臣(オオオミ)約700年ぐらいか。)』と『藤原さん(太政大臣1200年)』のみが今日で言う内閣の大臣を独占してきた。これは世界の歴史上においても異様な長期政権と思われる。
- ※3 人によっては明治の維新を大化の改新(646)以来の大改革とした。
- ※4 江戸・幕末時代には太政官はおろか平安京に天皇が存在している事も有名無実的になっていたとされる。人によっては『天皇親政』などで盛り上がる人々がいるが、日本史的に見ると天皇親政の政府からいかに逃れるかの対処を幕府とかで盛り立てていったようにも思う。
- ※5 郡県制・・・始皇帝の秦帝国が律令制改革の一環に始めた政治体制、分類は中央集権制度にあたる。国土を中央政府(三省六部)の下に『郡政府』と『県政府』に分け一つの国(秦帝国)として統治を目的とした。日本の場合は明治維新の郡県制が中国のシステムかは不明だが明治政府が維新日本国家の幕藩体制に代わる中央集権制度として始められた。
【参考文献(イラスト)】
- 『wikipedia(年数)』
- 『広辞苑』
- 十六八重表菊(ぶどう)