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北条政村の編集履歴2015/10/30 22:37:02 版
編集者:夏みかん
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北条政村

ほうじょうまさむら

鎌倉幕府・第7代執権。北条時宗が執権に就任すると連署に就任、時宗を補佐した。

概要

生没年 元久2年(1205年)6月22日~文永10年(1273年)5月27日

 鎌倉幕府・第7代執権。父は第2代執権・北条義時、母は伊賀朝光の女。兄に第3代執権・北条泰時、北条(名越)朝時、六波羅探題北方、連署などの要職を歴任した北条重時、弟に金沢流北条氏の祖・北条実泰、北条有時ら、子に第9代執権・北条貞時のもとで連署を務め「北条宗方の乱」で北条宗方に殺された北条時村がいる。

 建保元年(1213年)、鎌倉幕府・第3代将軍源実朝の御所で元服。

 承久元年(1219年)、3代将軍・実朝が鶴岡八幡宮で暗殺され、幕府は次の将軍として天皇の皇子を望んだが朝廷の最高権力者・後鳥羽上皇はこれを拒否、妥協案として京から九条頼経(藤原頼経)を迎える。

 承久3年(1221年)、承久の乱が起きるが幕府は1ヶ月余りでこれを鎮圧し、兄・重時を六波羅探題北方に置き、京の治安維持にあたらせる。

 元仁元年(1224年)6月13日、父・頼朝が死去、母・伊賀朝光の女により次の執権に担ぎ出されたが阻止され母は伯母・北条政子の命で伊豆に流され、兄・泰時が次の執権に就くことになったが、政村は兄・泰時の計らいによって罰を受けることを免れた(伊賀氏の変)。これ以後、北条氏一門の重鎮として一族を支え続ける。

 嘉禄元年(1225年)、頼経の後見を務めていた伯母・政子が死去。

 嘉禄2年(1226年)、前年に元服していた頼経が9歳で4代将軍に就任。

 仁治3年(1242年)6月15日、第3代執権・泰時が死去し、泰時の孫・経時が執権に就任。

 寛元2年(1244年)、経時と対立を深めていた将軍・頼経を強引に将軍職から解かせると、経時は次の将軍に頼経の子でわずか6歳の頼嗣を据える。

 寛元4年(1246年)、4代執権・経時が23歳で死去し、経時の弟・時頼が次の執権に就任、この機に乗じて頼経派の名越光時が得宗家打倒に動くが、すぐに鎮圧され、鎌倉にとどまっていた頼経は京に返され、光時は伊豆に配流、頼経派の多くは処罰された(宮騒動)。

 宝治元年(1247年)、宝治合戦が起き、頼経派であった有力御家人・三浦氏が滅亡。

 建長4年(1252年)、後嵯峨天皇の第一皇子・宗尊親王を次の将軍に迎えるために、頼嗣を将軍職から罷免、京に返す。(頼経・頼嗣父子はこの年相次いで亡くなっている)

 康元元年(1256年)、5代執権・時頼が病に倒れ出家、跡を継ぐべき時宗は幼少であるためつなぎとして重時の子・長時が執権、政村が連署に就任する。しかしながら、実権は俗世から離れた得宗・時頼の手にあった。

 弘長3年(1263年)11月22日、時頼が死去。

 文永元年(1264年)7月、6代執権・長時が病に倒れ出家(8月に死去)、政村が執権に就任する。

 文永3年(1166年)、5代将軍・宗尊親王を京に返し、惟康親王を新たな将軍に迎える。

 文永5年(1268年)正月、服属を求める元からの使者が太宰府に現れる。未曽有の国難が迫るなか、18歳の若さで時宗が執権に就任、政村は連署に就任し安達泰盛平頼綱らが補佐する。

 文永9年(1272年)2月11日、謀反の疑いにより鎌倉で名越時章教時兄弟が、六波羅で時宗の異母兄・時輔が殺される事件が起きるが、後に時章は無実だったことが判明する(二月騒動)。

 

 文永10年(1273年)5月27日、政村死去。享年67歳。連署から執権に就任し、執権から連署に就任した人物はほかにいない。

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