生涯
天文17年(1548年)三河国上野(愛知県豊田市上郷)に生まれる。幼名は於亀。
父は榊原長政。母は道家氏。兄に榊原清政。
正室は大須賀康高娘、側室は花房氏。
息子は大須賀忠政、榊原忠長、榊原康勝。娘は酒井忠世室、池田利隆室(鶴姫)。
榊原氏は祖父の榊原清長の代に、伊勢国一志郡榊原より三河に移ったといわれる。
幼少時に勉学のため松平家の菩提寺である大樹寺に入っており、そこで軍学などをおさめた。能筆家としても知られる。
永禄3年、13歳の時桶狭間の戦い直後に大樹寺において松平元康(徳川家康)に見出され、小姓となる。
14歳の時に父長政が死去、父の弟である榊原一徳の養子となり、小平太と名乗る。
初陣は16歳、永禄6年の三河一向一揆。この時家康から武功を賞されて「康」の字を与えられた。
19歳で元服。本多忠勝とともに旗本先手役となる。忠勝とは親友であったと伝わる。
以後、徳川家康の側に常にあり、数々の戦いで戦功を立てた。姉川の戦いの活躍、小牧・長久手の戦いでの檄文が有名。
また政治感覚にも優れ、中でも上杉謙信との外交戦略は、彼が中核を担っていたと言われる。(文字が読めないというのは、司馬遼太郎の創作である)
天正7年(1579年)、32歳の時、松平信康の傅役であった兄・清政が蟄居すると、榊原家の家督を継いだ。
天正18年、徳川家の関東移封にともない関東総奉行となり、上野国館林城に入った。徳川秀忠の補佐を任される。
慶長5年、関ヶ原の戦いでは徳川本隊である徳川秀忠軍の軍艦となり中仙道を進む。関ヶ原に間に合わずに激怒した家康の元に赴き、謝罪と説得をした。
後年、同じ徳川四天王の井伊直政と親密となり、親族のようにつきあったと榊原家伝にある。
また加藤清正とも親しく付き合っており、朝鮮出兵の折に清正が康政の武功にあやかるためと馬印を借りている。清正の娘、あま姫は三男康勝に嫁いだ。
慶長11年5月14日、館林において死去。59歳。
家督は三男の康勝が継いだ。